桂伸三さん インタビュー



1983年2月10日生まれ、千葉県習志野市出身。
 

━争わずに生きていきたい
中学生の時から芸人になりたいと思っていましたが、その時はほとんど落語を聴いたことはなかったです。
テレビでビートたけしさんのお弟子さんたちが修業時代のことを話されていました。ストリップ劇場の幕間に演る漫才とかコントの話。
女性の裸を観に来ている人達がお客さんだから、なかなか食いつかない。腐りそうになりながらも努力して少しずつウケるようになってくる。風呂なしのアパートで銭湯に行くお金すらないから、屋上の水道にホースを突っ込んで…ってそんな内容だったと思います。印象的だったのが「その時はつらかったけど、今思い出すとあの時が一番楽しかった」という言葉。
それを聞いたときにそういう生き方がしたいなぁ…と思いました。競争社会で人を蹴落としたり、人に蹴落とされながら生きるんじゃなくて、喜んでくれるお客さんのこと、芸のことだけを考えて生きていく。
きれいごとのようですが、私にとって夢のような話だから、その分貧乏だって覚悟するし、家庭を持つとか当たり前の幸せもなくて構わない。そんなことを考えながら高校3年生まできました。

 

━落研のための大学進学
芸人になりたいという思いは、親にも友達にも先生にも言わずに高校3年生になりました。親は「大学には行ったほうがいい」というけど、自分は芸人になるつもりでいるから大学に行く気なんかない。
そんな時にテレビで爆笑問題さんの番組だったと思いますが、渡辺正行さんとか三宅裕司さんとか、お笑いや役者の方などに大学の落語研究会出身の方が沢山いらっしゃることを知ったんです。「そうか大学の落語研究会に入れば憧れの世界に近づけるのか」と。これは完全な勘違いなんですけど、高3の私はそう思って大学受験を決意しました。落研がある大学だけを受けて、國學院大学に入学しました。
で、落研に入るからには一応落語を聴いておこうと、寄席へ。初めての寄席で誰が出ていて何を聴いたのかはほとんど覚えていませんが、とにかく居心地が良かった。いろんな芸人が入れ替わり立ち替わり、ウケたりウケなかったり。常連風のお客さんが作り出す客席のちょっとした緊張感。世間とは明らかに違うリズムで流れるゆったりとした時間。いっぺんに寄席の、そして落語の虜になりました。そのときの気持ちは入門してからも変わらず、前座の頃、太鼓を叩いたり高座返しをしたり根多帳をつけたり…と、寄席の一員になっていることにこの上ない悦びを感じていました。それはこれからも変わらないと思います。

 

桂伸三さん

 

━自分にとっての落語とは
落語は哲学や心理学、宗教だったりのごく崇高なものを含みながら、笑いによってそれらをある意味越えたり、吹き飛ばしたり…と本当にすごいものだと思っています。
が、同時になんとも言い表しにくい人間の微妙な心理や現象をやさしく描いてくれる。そういうところにとくに魅力を感じます。わかりにくい例えかもしれませんが、目の前に3メートル位の短い横断歩道があって信号は赤。車も全然通らないからついつい渡りたくなるんだけど、向こう側には親子連れがちゃんと待っている。当然止まって待つんだけどなかなか青にならないし、どんどん人が増えてくる。なかには構わず渡っていく人もいるが、せっかくここまで待ったんだし、なにより向こうで小さな子どもが見ている。待ちながら「なんだろう、このすごく無駄に感じる行為と時間…。なんか気まずいなあ。外国の人が見たら日本人って変だって思うんだろうなあ」なんて思っているうちに、「青になってほしい」と同時に「車通らないかなあ。
車が通ってくれれば明確な待つ理由が生まれるのになあ」なんて考え出す。これって不思議だと思うんです。車が通ったって本来何も良い事なんてないはずなのに、そのときには通ってくれればちょっと救われた感じがする。そういう不思議で微妙なものを、呼吸や間で描いた噺がとくに好きです。『笠碁』や『長短』、『意地くらべ』など。

 

━時間の使い方
映画を観たり、お芝居を観に行ったり、いわゆる遊びの時間もすべて高座につながると思っているので仕事と休みの境はほとんど無いですね。
でも息抜きも必要なので、青春18きっぷを買って、宿も目的地も決めずにぶらぶら旅をするなんていいなと思います。近いうちにやりたいです。でも結局旅先でも落語のことは考えていると思いますが…。

 

━いまを大事に生きる
同世代でどんどん売れていく仲間がいて、ついつい焦ったり、真似をして柄にもないことをしてみたりしがちですが、結局自分が本当に良いと思ったものじゃないとお客様も喜ばないというのがだんだんわかってきました。
当たり前のようですが、一高座一高座を大事にして自分なりに精一杯芸に向かい合うしかないんですね。寄席の世界にいられる悦びを感じつつ、私が寄席に出ることを喜んでくださるお客様が一人でも増えるように精進を続けます。



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春風亭昇吾さん インタビュー

1983年12月7日生まれ、福岡県田川郡出身━友達の薦めで落語を知るきっかけは友達ですね。東京に来る前に大阪にも住んでいたんですけど、福岡と大阪の友達が薦めてくれたのがきっかけで落語を観ました。その友達はインターネットカフェのバイト仲間。入門したのが27歳のときで、もう田舎の福岡に帰ろうかなと思ってたとこでした。そこで友達に「観てみたら」と勧められて、その月に大阪に来ていたのがたまたまうちの師匠だったんです。友達は「どうせ田舎に帰るくらいならやったらいいんじゃない」と。僕もノリで「じゃあ観てみる」って。そしたら面白かったですね。20代ってテレビで放送していても見ないじゃないですか、よっぽど好きじゃないと。だからそこが初めてでした。最初が生でよかったと思います。━師匠を選ぶやっぱり大阪で観て面白かったからですかね。だから、大阪に違う人が来ていたら落語の道に進んでいなかったかもしれないです。師匠が笑点に出ていたのも知っていたので。そのあとは、師匠が出ている寄席にも大阪から通いました。すごくわかりやすくて、同じ話を違う師匠がやっていたときにやっぱり師匠が一番面白かった。だから師匠を選びました。━「昇吾」という名前前座から昇吾です。たい平師匠が考えてくれました。うちの一門は自分で考えるんです。だから兄弟子たちも自分で考えてましたね。僕は自分で考えた分は全部却下されたので(笑)弟と同じ「昇市」もありましたけど全部却下(笑)でもたい平師匠が30個か40個考えてくれたんです。見習いの頃、たまたま師匠の荷物持ちをしていた時に仕事の合間に考えてくれて、「じゃあその中から2つくらいお前が気に入ったやつ選べ」って。普通の名前っぽいのがいいなと思って昇吾にしました。うちの師匠・春風亭昇太も普通の名前っぽいでしょ?古いのもあんまり好きじゃないし。で、二ツ目になるときにたい平師匠が「名前変えなくていいよ、変えちゃだめだよ」と。たぶん林家のたい平師匠の一門はみんな名前変えてないと思うんですよね、前座から。だから「名前は大きくするもんだよ」って言われました。それに皆さんすぐ覚えてくれるんですよ、昇吾って。だからもう変える必要ないなと思いますね。━懐中時計事件僕は大体怒られてました。本当は破門になる一歩手前までいってるはずなんですよね。うちの一門は体育会系ですから。まだ楽屋入りしていないとき、懐中時計ってあるでしょ?あれの電池を替えてこいって言われたんです。それを「わかりました」って言って1ヶ月くらい放置していたら師匠がブチ切れちゃって(笑)「バカヤロー!!!お前何にもやってないのになんで電池も替えられないんだよ!!」って(笑)で、「店が分かりませんでした」とか訳わかんないこと言って・・・やっぱり俺がおかしかったんでしょうね(笑)その1カ月、時計は大事に家に保管してました(笑)「明日持ってこい!!」って言われたんで、商店街の時計屋を無理やり起こして電池替えてもらって、師匠の家にすぐ持っていきました。今でも師匠の前ではこの話はできないですね。あれ以降頼まれごとはないです。僕はそこで信用が1回無くなってるんで(笑)でも一応楽屋入りはさせていただきました。━趣味は読書好きな作家は道尾秀介さん。『向日葵の咲かない夏』とか道尾さんの作品は読んでいます。最近は読む冊数も減りましたね。うちの師匠自体がそんなに稽古をつけてくれるタイプではなくて、「○○師匠のところに行ってきなさい」だったので覚えたらあとは時間が空いてたので。落語の本は買ったけど読まなかったです。普通の小説読んだほうが面白い。ただ本を楽しむだけですね。━きょうの二席ボロボロでしたけどまだよくやれたほうかなと思います。朝からだったので全然舌が回らなかったですね。普段からやってたら舌も回るんでしょうけど、僕は怠け者なので。その中でも、とりあえず早口になりがちなので走らないようにはしました。『松山鏡』は聴かせる話なので特に気を付けましたね。田舎言葉で早口になるとぐちゃぐちゃになっちゃうので。田舎言葉は適当。たぶん松山でもあんな喋り方してないと思いますし、師匠方はもっと丁寧です。やっていくに連れてオリジナルになっていくらしいですね。━目標目標はとりあえず師匠を安心させること。やっぱり頑張らないと食っていけないじゃないですか。だから師匠が「あいつ仕事あるな」って思うぐらいに、二ツ目の間になりたいなと。真打になったら違う目標がまたできると思うんで。売れたい!とかはあんまりないんです。お金もあったほうがいいとは思いますけど、後輩と飲みに行けるくらいのお金があればいいです。だからそこそこ稼がなきゃいけないんですけど、そんなたっぷり稼がなくてもいいかなって。━皆さんのおかげあんまり上手くなかったんで高座も2年間ぐらい上がってなかったと思いますね。そのかわり、他の師匠たちがかわいがってくれたんです。有難かったですね。たい平師匠もそうだし、立川生志師匠もそう、遊喜師匠とか文治師匠とかが仕事くれたから食っていけました。本当に皆さんのおかげですね。この世界に入ったのも皆さんのおかげですから。今度3月に地元で落語をやるので、その時は薦めてくれた友達も来てもらいます。嬉しいですね。ましてや売れっ子のたい平師匠と行くので親も安心するでしょうね。やっぱり知っている師匠なので親もよかったって喜んでくれています。春風亭昇吾動画一覧はこちらから

柳家喬の字さん インタビュー

1978年3月14日生まれ、埼玉県さいたま市出身━黄金世代こう見えても高校時代は空手道部。3年間サンドバックを務めました。生まれた日はホワイトデーで、今年の3月で40歳になります。同学年のライバルは市川海老蔵さんです。あとは、氷川きよしさん、滝川クリステルさん。今年引退する安室奈美恵さんも。そして柳家喬の字。黄金世代です(笑)━いつの間にか入門高校の芸術鑑賞会で落語を観て雷に打たれ、就職してからは寄席通いをする様に。段々とうちの師匠を追うようになって、20歳の頃より“この人の弟子になりたい”と思いました。噺家になりたいというのもありましたけど、その前に“この人の弟子になりたい“と。25歳の時に会社を3月いっぱいで辞めて、4月で色々外堀を埋め、あとは入門するだけという状態にして師匠に接触しだしました。5月1日に寄席で師匠を出待ちをして初めて話を聞いていただきました。それから毎日、出待ちをして・・・。噺家は初日と言って1の付く日に弟子が師匠の家に集まるんですよ。だから師匠が「毎日来るんだったら、(21日に)初日というのがあってみんな(兄弟子)も来るから家に来なさい」と。それから毎日、なし崩し的に師匠宅に通う様になり、5月30日ぐらいに前座名をもらいまして。だから正式に今日から弟子っていうのはないんです。5月1日に師匠に話を聞いていただいて、5月21日から師匠宅へ通うようになり、それからいつの間にか芸名をもらって、いつの間にか前座になり、いつの間にか二ツ目に。だから「今日から弟子に取ります。」というのがなかったんです。━前座名の由来は勝小吉ある日突然「お前は小きち」と。5代目小さん一門の前座は、小さんの“小”を付けるか”さん”を付けるかで、前座名をいただきます。たまたま僕が入門したときにNHKの大河ドラマで『新選組』がやっていました。師匠は勝海舟好きで、勝海舟のお父さんが勝小吉。勝小吉の“吉”は漢字なんですけど、小さんの“小”と、“きち”は字面を“小さん”に合わせて、ひらがなの“きち”に。名前らしい名前でもあるからと“小きち”。━“喬”の字との縁前座期間は見習いが1年あったので、それを含めたら3年9カ月ですね。それから二ツ目に昇進して、喬の字。この名前には2つ意味があるんです。僕は師匠の8番弟子なので、兄弟子が喬太郎を始め、喬之助、喬四郎、喬之進とか一通り喬の付く名はつけられていて、師匠は小きちのままでいいとおっしゃってくださいました。前座名って覚えてもらいやすいように、小はぜ、小ざる、さん角、さん坊・・・みたいな、ちょっと他の物と掛けた名前をつけるんですけど、「小きちは名前らしい名前だし小さん一門っぽいから、真打までこれでいってもいいよ」って。だけど、さん喬の弟子なので「“喬”の字をください」って言ったら「じゃあ、“喬の字”あげる」っていうのが一つ。もう一つは、昔の呼称に“何とかの字”というのがあるんですよ。そのものを表す代名詞のことを“〇の字”って言うんです。例えば、ありがたいことを“御の字”。その他にも惚れてることを“ほの字”とか、名前に三がつく人は“三の字”と。現在名前に“喬”を使っている落語家はうちの師匠と桂南喬師匠の2人だけ。しかも僕が高校の芸術鑑賞会で雷に打たれたのが桂南喬師匠だったんです。だから南喬で落語を知り、さん喬で落語家になったので、喬の字に縁があるから喬の字。このまま真打でもいいかなと思ってます。━師匠とお隣さん僕は師匠のマンションの隣ビルに住んでいて、太ると師匠に顔が似るので「息子さんですか」ってよく間違われるんです。出身が埼玉なので、どうせ東京に住むのに師匠の家から離れて住んだらメリットがないじゃないですか。東京に出てきて6回引っ越してるんですけど、だんだん師匠宅に近づいてきてとうとう隣になりました。師匠は「いつか俺のマンションに引っ越してくるんだろうな」って言ってますけど、師匠のところは家賃が高いんですよね(笑) 師匠は寛大な方です。怒られますけどさっぱりしてて引きずらないです。大師匠の5代目小さんの言葉「芸を磨くより人を磨け。人を磨くより自分を磨け。自ずと人が付いてくる。背中を見て育つ」。これを実践なされてる方なんで、そんなに怒られたことはないです。優しいというか寛大な方です。━プレーヤーよりディレクター自分の高座がない日は、車の運転が出来るので師匠のお伴が多いのと、自分でもいろんな会を立ち上げているので企画構成作業を。どっちかっていうと、プレーヤーよりディレクター気質の人間なんです。この会場は何線と何線が通っているのでこういう客層で、こういうタイプの噺家と組むのがいいとか、ネタはこういうのをやろうとか。そういう企画構成が好きなんです。だから自分の独演会も1年前から会場取って、サブタイトルを決めて、ネタを決めて、ゲストを決めて、流れを決めて・・・そういう番組構成を考えるのが好きですね。ただ、告知してチケット1枚売れた時点で鬱になる。本当にこの会やらなきゃいけないんだって(笑) 昔から文化祭とか好きでした。ただ、高校くらいから浮きますよね。みんな中学までは頑張るけど高校になると熱量が違う。だから浮いてたと思うんですけど、やっぱり企画とかが好きですね。━目標余韻を残せる噺家になりたいですね。ただ観に行って「面白かったね」でそのまま帰るんじゃなくて、「ちょっと一杯やって帰ろうよ」「熱燗でも飲んで帰ろう」「また来たいね」と、お客さんが余韻に浸りたくなるような、そういう噺家になりたいですね。余韻を残せる噺家になれば自然に寄席に顔付けされて、トリも任されるようになると思うので。ただ〇〇師匠ほど売れたくないですね。フライデーされたくないので(笑) 噺家としてそこそこ売れたいですね。柳家喬の字動画一覧はこちらから

立川吉幸さん インタビュー

1973年8月31日生まれ、千葉県出身━落語との出会いきっかけはテレビですね。子どもの頃が漫才ブームで、ツービートとかB&Bとかザ・ぼんちとか。だからお笑い番組が多くて、お笑い好きになって、その一つが落語でした。その時にインパクトが強かったのは枝雀師匠。子どもにもわかるオーバーアクションで、当時小学1年の子どもにもわかったというのが大きかったですね。それが落語との出会いでした。それからは、お笑いよりも落語が好きになりました。それから小学校高学年ぐらいになって、東京の落語をテレビで見るように。当時はレコードの時代だし、田舎だったので入手方法も知らないのでカセットテープで聞いてました。親戚のおじさんに貸りたり貰ったりして。その頃は10本セットぐらいの安いカセットテープがあって、先代痴楽師匠とか先代文治師匠、柳昇師匠とかが入ってたかな。古典落語より新作のほうが取っつきやすかったですね。そればっかりを聞いていたわけではないですけど、落語が面白いとはずっと思っていました。━職業:落語家職業として落語家になりたいと思ったのは20歳くらい。高校卒業するときはちゃんと就職しなかったので、当時はバイトをしながら寄席に通っていました。もちろん落研でも何でもないので落語はやったことなかったですけど、やっぱり前座を見ているとやりたくなるんですよ。このぐらいだったら俺にも・・・って勘違いをするんです。すると若気の至りで、やらないで後悔するよりやって後悔したほうがいい、とか思っちゃって。ただ、やったこともなかったし勇気もない。なので、大学に行ったとして22歳、ちょっと働いたりなんかして入門して24歳くらいが限界じゃないかなと考えまして。今でこそ年配で入っている方もいますけど20年前くらいはそのくらいがリミットかな、と自分で勝手に思ったんです。それで、やることもなくて追いつめられちゃって、”落語家になるしかないんだ”っていう変な感じになっちゃったんですね。母親には「好きなことすればいいじゃない」「やったことないのに大丈夫なの?」とは言われましたけど反対はなかったですね。━快楽亭ブラックへ突撃まずはブラック師匠に入門しようと思っていたので、ブラック師匠の家に突撃ですね。高座が強烈に面白かったです。新作とか改作とか、時々古典もやるんですけど、やっぱり基礎がしっかりしていないと変なこともできないんだなと思いましたね。もちろん何の面識もないですけど、弟子にしてくださいと。そしたらあっさりと突撃成功。房総半島出身なので、ブラ房という芸名でした。それから8年経った時点でブラック師匠が立川流を除名になってしまい、今の師匠・立川談幸の門下に。芸名も吉幸になりました。━立川談幸門下にその時点で8年落語家をやっているので何人かお世話になってる師匠ができるじゃないですか。それで、どの師匠に再度入門しようかなって悩んでたときに、うちの師匠とお酒を飲んでいたんです。その席で酔っぱらって「私は師匠の落語だったらできるような気がします」みたいなことを言ったら、「じゃあうちの弟子になればいいんじゃないの」って言ってくれて。その言葉に僕は号泣して、次の日に「昨日はありがとうございました」って話したら「え?!本当にうちに来るの?!」って(笑)なので本当にありがたいです。命の恩人ですからね。━前座11年うちの師匠が立川流を辞めて落語芸術協会に入ったのが3年前。弟子の私と弟弟子も入って、2人とも立川流では二ツ目だったんですけど、他協会から入るっていうことは組織のシステムも違うので前座をもう一度やってくれということになりまして。私が1年、弟弟子が2年。二ツ目になった人がもう一度前座をやるっていうのは前代未聞で、業界内ではちょっとだけ話題になりました。なので、芸協で1年、立川流で9年9カ月やったのでトータルで11年近く前座をやりましたね。前座に戻るって聞いたときは納得していましたけど、40歳を過ぎていたので疲れました。腰は痛くなる、膝は痛くなる、ストレスは溜まる。ただ楽屋は楽しかったし、1年間ってわかっていたのも大きい。立川流の時は身体は楽だけど先が見えない辛さもあったので。━趣味は競輪競輪の仕事もやっているんですよ。これはちょっとアピールしたいですね。予想してます・・・なかなか当たらないですけど(笑)競輪の魅力は、個人競技でありながらチームを組むところ。1着になるために利害関係があって、そういう人間のドロドロしたところがいいですね。もちろん結果に影響しますから、それを予想するのが楽しい。だから他の公営競技と違って初心者は取っつきにくいんです。競馬だって競艇だってオートだって、パンッと鳴れば一気に行くけど、競輪は鳴っても動かない。そういう人間関係の読み合いが面白いんです。今年もいきなり赤字です。僕は年末に高額を賭けるとかの度胸がないので、ちまちまやってます。━目標を語る競輪の目標は当てること。儲からなくてもいいので、的中させることですね。的中と儲けるっていうのは別。10レース中8レース当てても、買い方のセンスで損する人もいるわけですよ。逆に、10レース中1レースだけでもドンと儲かる人もいる。だけど私は当てにいきたい。なぜかというと、ファンの人の前で予想をするので、ファンの方に的中車券を手にしていただく手引きができればと思ってます。初心者競輪教室とかの講師もやっているんでね。落語家としては、売れたいですね。芸協に入ってせっかく寄席に出られるようになったので、寄席にしょっちゅう出られるようになりたいです。立川吉幸動画一覧はこちらから

笑福亭羽光さん インタビュー

1972年9月24日生まれ 大阪府高槻市出身━勝負服で参戦今日の高座は全然エロくないやつ。ましなほうです。深夜の放送の時はそういうちょっとエロい噺をやったんですが、今回電話でオファーをいただいたときに「子どもも見るのでそういうことはちょっとやめていただけますか」と言われまして。なので本放送の収録だと思ったら配信だけやと(笑)だから急にエッチな噺と、2席目は芸能ネタみたいなものをやらせてもらいました。放送の時は私服のトークがあったので、一応テレビに映るための服ということで来たんですけどね。━ノンフィクションが好き1席目は出身地の高槻市での話。実話をもとに作っています。高校2年の夏の思い出、ラブストーリー。ですから携帯電話も何もない時代の、家に電話して告白するっていう噺ですね。昔、漫画の原作を書いていて、その時に何度か青春もののような感じで今日の噺みたいなものを書いたんです。そういうのをもとに作った新作落語ですね。シナリオがすごい好きで勉強をしていました。漫画の原作者をやりながらお笑いもやっていたんですけど、生活は漫画のライターとか原作者のほうがほとんど。『実話ナックルズ』みたいな裏社会のどうのこうのとか、現在のテレクラ事情の潜入ルポとかをやっていました。調べて記事にするみたいなものがすごく好きで、ノンフィクションが好き。だから1席目の新作落語『私小説落語 青春編パート1』もそういう作品です。━天然ボケ?10年前、お笑い芸人をやっていた当時は『エンタの神様』っていう番組があって、1~2分のテレビのネタ尺に合わせてやる時代でした。ワァっと勢いでやるみたいな。全然落語とは違いました。4人組の中で担当は天然ボケ。天然ボケを演じているうちに天然ボケになってしまいましたね(笑)━挫折大阪の大学で落研に入っていて落語はやっていましたけど、落語家になろうとは思っていませんでした。高座名は三代目失恋亭毛零太(しつれんていもれた)。一代目も二代目も実際にいて継ぎました。それはどういう人がやるかというと・・・気持ち悪いキャラですよね(笑)大学以来落語からは離れていましたけど、戻ったきっかけは『エンタの神様』。その当時のお笑い芸人にとって、あれに出てスターになるっていう一つの夢で。テレビでバーッと有名になってという芸人としての夢がありました。桜塚やっくんとかと同じ時期ですね。でも、放送作家とかにネタをいじられてボケとツッコミも変えられるみたいな。しかも1分くらいしかテレビに出れない。僕も半年間くらい作家とやり取りして結局出れなかったんです。だからそういうことにすごく虚しさというか絶望感を感じて。でもそれと同時に作家として本を出していたんで、なんかストーリーをつくるってことにすごく興味があったと。しかも落研だった。なので結局は挫折ですよね。『エンタ』に出れなかったというよりお笑い芸人としての挫折。漫画の方もヤングジャンプで週刊連載していたんですけどそれも打ち切られて八方塞がり。それでどうしようかなと思ったときに落語に救いを求めたという。ですから人生の絶望からのリハビリみたいな感じですね、落語は。リハビリは順調ではないですね(笑)あれから10年も経ちますから。━エロつながり『虎の門』という番組があって、そこのお笑いコーナーで師匠が審査員で出てまして。そのコーナーに爆裂Qで出ていたときに師匠と話をして合いそうだなと。あとはエロつながりというか、うちの師匠はオールナイトニッポンでエロいキャラでやっていたので、そこで通じ合いましたね。羽光(うこう)という名前は師匠がつけてくれた名前ですけど、意味は50音の”あ”から順番に考えたんじゃないですかね?「あこう、いこう、うこう・・・うこうでいいな」って。━放送版「ミッドナイト寄席ゴールデン」での思い出僕は英語教師と数学教師の両親がいて、5歳年下の妹がいるっていう家族。僕の世代はテレビとかビデオが一家に1台の時代だったので、お父さんとお母さんが寝た夜中にそーっと起きて、居間に行ってテレビつけて、イヤホンでエッチなビデオを見るっていう世代ですね。で、そこでお父さんに見つかったっていう話。家族の前で「お前さっき何やっててん」って言われて「いや、何もやってないよ」と。そしたら「(その行為を)やってただろ!」って家族の前で罵声を浴びせられるという。そんなネタを流してくださったんです。プロデューサーさんが頑張ってくれて、「これは医学用法だ」と(笑)「これがダメならガンとか糖尿病もダメになる」って戦ってくださったらしくて(笑)━目標目標はR-1グランプリの4回戦に進むことですかね。これまでの最高成績は3回戦。毎年一応挑戦していて、3回戦と4回戦の壁はすごく感じます。ルミネのあの舞台でコントに勝てないっていうのもありますし、3分っていう時間も。落語は絶対に長いほうが強いと思うので。基本的には座りでどこまでできるかっていうことですね。笑福亭羽光動画一覧はこちらから

柳家蝠よしさん インタビュー

1985年9月21日生まれ。福岡県出身━歌舞伎役者に憧れて元々古典とか歌舞伎とかが大好きで歌舞伎役者を目指していました。国立演芸場で歌舞伎役者を養成していて、そこに入ろうと思っていたんです。だけどちょうど募集が締め切られてしまったので、それを機に「福岡にいたってしょうがないな、とりあえず東京に行って、毎月歌舞伎座に行って歌舞伎の勉強をしよう」と決意しました。歌舞伎の演目って落語に由縁があるものがいくつかあるんですけど、ちゃんと聴いたことはなかったんです。土曜の昼間なんかに米朝師匠とか上方の落語家のテレビがやっているのを観て笑ってた記憶はあるけど、ちゃんと聴いたことってないなって。それでCDショップに行った訳です。だけどすごい数があって何から聴いたらいいかわからなくて、その中で唯一歌舞伎で観たことがあった談志師匠の『芝浜の革財布』を聴いて衝撃を受けました。そこからは談志師匠の追っかけをやっていて、そのうち段々落語の方が好きになって、気付いたら落語家になっていました。━芸事は真似から僕の師匠の落語の好きなところは口調。だからいろんな人から「師匠に習ってないネタでも師匠に似てるね」と言われることが前座の頃はよくありました。最初は嬉しかったですけど、師匠にそれを話しても「お前と俺は違う。お前は俺に似てないよ。お前の道を行け」と言われますね。噺がウケるのは師匠が教えてくれた間でやってるから。自分の欲が出てきて笑わせようとしてウケなくなった時にも、師匠がそれを聴いててくれて「なんでウケないか教えてあげようか」といろんなアドバイスをくれました。だからウケるのは師匠のおかげです。私の実力というよりもすべて師匠から教えてもらったことなので。いろんな名人の方々も「芸事は真似から入る」っておっしゃってますし、一番最初に噺を教えて下さったのも師匠ですし、自然と似ちゃうんですかね。意識したこともないんですけど、師匠のお客様が私の高座を見て「上がり方まで似てる」って言うんです。一切意識したことはないのに自然となっちゃうんでしょうね。━理想の噺家への道いくら師匠に憧れたとしても同じ噺家にはもちろんなれない。声のトーンや骨格も違う、感性も違いますから。一度、師匠と別の道に行くかもしれないと悩んで師匠に相談したことがあったんです。そのときに師匠は「噺家というのは、こうなりたいって言って自分の理想の噺家になれる人はいるのかい?それはアマチュアなんじゃないのかい?」「目の前のお客様だとか壁を一つずつ乗り越えて辿り着いた結果が全く違う新作の方でも別の道でも俺は全然構わないよ」と言ってくださりました。だから今は一つ一つの壁を越えていくっていうことしか考えてないです。━古典を極める基本的に私はやっぱり古典が好きなんです。もちろん新作も好きだし、新作を作ってる人ってすごいなと思います。だけど古典は古典で同じ噺をいろんな人がやっていて、その中で面白い面白くないってハッキリ差が出ちゃうので、その中で一人でも笑っていただけるように古典を精進したいなとは思っています。━相撲からディズニーまで相撲は地方場所にも観に行ったりしますね。国技館の空間とか柝の音が好き。歌舞伎でも鳴り物とかが好きです。あとはディズニーのマリーちゃん。ディズニーシーでしか会えないんですよ。マリーちゃんに会うために一時期ディズニーシーに通っていました。昔、真っ白な猫を拾ってきて飼っていたことがあって、こいつがまた可愛い猫で、学校帰りに必ずいるんですよ。まぁ寝ているだけでしょうけどね。で、私を見つけるとトコトコついて帰って行く。そんな猫のことを、マリーちゃんを見て思い出したんです。それでディズニーシーに通ってました。だけど最近ちょっと浮気しまして・・・カワウソにハマってます。池袋の方にうさぎカフェがあって、そこに通ってカワウソと遊んでもらっています。うさぎが好きで通ってたらなぜかコツメカワウソが仲間入りして、カワウソの可愛さに目覚め週一ペースで通うようになりました。あんな癒しはない。でもマリーちゃんもカワウソもキャバクラみたいなもんで、お金を出さないと会えない。だからキャバクラに通う人の気持ちもちょっと分かる。健全なキャバクラですね。━言い訳はしない寄席というのは、昨日はみんなウケてたのに今日は全体的に客席がシーンとしてるなって日が多々あるんです。でもみんなお金を払って、落語を楽しみたい、落語を聴きたいって来てくださった人なんですよ。それを笑わせられなかったっていうのは自分に原因があると思うんですね。うちの師匠がそう。他の噺家も言ってますけど、どんなお客さんでも笑わせる。だから他の師匠なんかも楽屋に来ると師匠方同志で話をしてるのですが、うちの師匠も話はするけど常に高座を気にして、高座をずっと聴いてるんですね。演者さんのやってるネタとお客さんの反応で「今日はこういう客なんだな」って見定めている。だからそうやっていつでもどんなお客さんでも笑わせている師匠みたいな噺家になりたいなとは思います。言い訳をしないで、ダメなときは自分に何か非があるんだと。次頑張ろうと。そういう感じです。柳家蝠よし動画一覧はこちらから

桂宮治さん インタビュー

1976年10月7日、東京都出身。━師弟関係とは桂枝雀師匠っていう昭和の爆笑王がいまして。その方の『上燗屋』というのを動画サイトで見て噺家になりたいと思ったんですよね。それまでは一度も落語を見たことも聞いたこともなくて、それが30歳のとき。それから31歳になる手前で入門願いをしに行くんです。でも寄席にも行ったことがないから入門の仕方も全くわからないわけですよ。だからネットで調べて、とりあえず直接会いに行って何回断られても土下座しなきゃいけないんだなと。とはいえ歳も歳で結婚もしていたし、この世界でご飯食べていけるとも思ってなかった。だからテレビでよく見る師匠じゃなくて本当に愛せる人って誰なんだろうって。「師弟関係とは父親と子ども以上の関係になること」みたいなことがどっかに書いてあったし。本当に師匠の具合が悪くなったときに下の世話までできるような、そこまで惚れられる人っているのかなと思って、そういう目線で寄席を回り始めました。━全身に電気が走る前職はクライアントさんからの依頼で全国を回る営業。一応うちの会社では1番指名数が多かったので半年以上先まで予約が入っていました。だから依頼を受けるのをやめて、休みをつくってひたすら寄席へ。都内の小さいところから大きいところまで。普通の独演会も行ったし、立川流とか圓楽一門会のも。そんなこんなで1ヶ月以上も仕事を休みながら寄席を見て回ってて、そんな人いるわけねぇよな・・・って思ったころでした。国立演芸場の袖からすごい笑顔でヘラヘラしながらうちの師匠が出てきて、その瞬間に電気が走ったんですよ。女性に一目惚れしたことはないけど、師匠を見た瞬間に初めて本当にビビッときましたね。「うっ、この人だ!」って。「この人に頼んで無理だったらこの世界諦めてよう」と思うくらいすぐにわかりました。だからうちの師匠が何の噺をしていたか覚えてないです。ただ、終わって緞帳が下がってすぐ外に出て、国立演芸場の前でうちのかみさんに「師匠決まった!」って電話(笑)まだ何もお願いに行ってないのに(笑)そこからは記憶がありますね。━ようやく弟子入り麻薬の売買と勘違いされて私服警官に職質されたりしながら3日目くらいにやっと会えました。声かけたら「俺に?じゃ、喫茶店行こう」って喫茶店へ。「なんで俺?俺じゃなくてもっと他に行ったほうがいいよ」「いやいっぱい見て師匠です!」「そっかぁ」「会社辞めてきました」「えー?!」「結婚してます」「嘘でしょ?!もう辞めなよ!」みたいな。でも最終的に「女房連れてきな」って言われて、それから浅草の喫茶店でうちのかみさんに「辞めたほうがいい」と延々1時間以上。「ずっと貧乏だよ。金持ってるのなんかほんの一握りだから辞めな辞めな」って話をされながら、一番最後に「それでもいいんだったらとるよ」って。それでうちのかみさんも「宜しくお願いします」って言って「よし、じゃあ今日から俺の弟子」って取ってくれました。けど「ならないほうがいい」ってずっと言ってくれてたんで、うちの師匠めちゃくちゃ優しいですよね。━噺家人生最大の誇り他の一門の前座仲間にいちばん最初に言われたのが「よくあの師匠を選べたね」。すごくいい人だからみんな助けられてるみたいなんですよ。楽屋にいるだけですごく明るくなるし、自分の先輩にはちゃんと文句言って後輩には優しい人。だから「よくあの師匠が素敵な師匠ってわかったね」って先輩方が言ってくれました。“師匠選びは芸のうち”って言いますからね。いちばん最初の出だしだけですけど、師匠を選べたことだけは今でも誇りに思ってます。前座時代からどこに行っても「伸治兄さんの弟子なんだってねぇ、若いころから世話になっててさぁ」っていつも言ってもらえます。あの師匠の弟子になれたっていうのは、僕の噺家人生最大の誇りですね。━背中を押した妻の一言営業職のころは結構稼いでたんです。でも俺が嫌そうに仕事してたからかみさんが「何か好きなことやれば。一生一回きりなんだから」って。ただ後々「お笑い芸人とかだったら辞めなって言ってたと思う」とも。たまたま落語ってなった時に「これはこの人大丈夫かもしれない」とあの人ながら直感があったみたい。結婚したときは東京都のサラリーマンの平均年収なんかよりよっぽど給料もらってましたけど、結婚した途端にほぼ無職っていう地獄ですよ。桂宮治動画一覧はこちらから

柳亭市童さん インタビュー

1991年6月14日生まれ、北海道出身。━東京の冬北海道より東京にいるほうが寒いです。向こうは部屋の中が暖かいからあまり寒さを感じないんですよね。外の寒さは別次元で考えちゃうんで。━古典芸能何となく古典芸能が好きだったんですね。小学校の頃から和太鼓をやっていたりとか、書道をやってたりとか、日本古来の伝統的なものが何となく好きだったんですね。詳しかった訳ではないんですけど。テレビでもよくやってるじゃないですか、歌舞伎だとか。そういうものを、よくわかんないけど何となく見てるのが好きだったんです。なんか楽しそうだなみたいな。高校を出て特にやることも決まってなくて、唯一好きだったことが落語でしたね。━一目惚れ師匠には好きな理由が詰まっていましたね。色んな師匠がいて好きだったんですけど、言葉にできればいいんですけど、うちの師匠の高座を見ていたときにコレだ!っていうか「これが俺はすきなんだよな」って思ったんですよね。一目惚れに近いかもしれないですね。━名前深い意味はないです。色んな候補が出てた中で市童っていうのが左右対称でいいんじゃないかと。柳家だと柔らかめの名前がいいんですけど、柳亭って付くと結構堅めの名前のほうがかっちりくるって言われてて。で、ちょっと重ためだけど、わらべっていう字もいいし、左右対称だしいいかなみたいな。ほかに候補に挙がっていたのは市治楼とか。市治楼もいいなと思ったんですよね。最終的には何個かある中で自分で決めました。━夜更かしのおとも落語家になっていなかったら・・・高校生の頃に決めちゃっていたので、何をやりたいっていうのはあんまりないですね。小さい頃もそれほど強い夢もなく。ただ単純にお笑いは好きだったからそういうのもいいなと。ラジオが好きでした。ラジオから芸人さんの話を聴いてました。学生の頃はくりぃむしちゅーさんとかアンタッチャブルさんの番組をよく聴いていて、伊集院光さんのは今でも聴きますし。小学校高学年くらいにラジオを持たしてもらって、オールナイトとか聴き始めるんですよ。夜更かしできるアイテムだったから。布団の中で笑いをこらえながら・・・それが楽しかったですね。━趣味の時間ミュージカルを鑑賞したりしますね。劇団四季とか子どものころから好きなんです。帝国劇場に行ったりとか、何でもいいけどいいなと思ったら観に行ってましたね。『レ・ミゼラブル』『ラ・マンチャの男』とかも観に行きましたし。前座の頃なんか、時間がないないって言いながら実はちょっとはあるんですよ。その時に当日券とかで寄席が終わった後に行ってましたね。ダーツは最近ちょっとはまってるっていうだけなんですけど、お洒落な感じじゃなくて一人で黙々と投げます。時間つぶしにとても良くて(笑)寄席だと、二ツ目ですから最初の方に出番があって、トリの師匠まで時間があると1、2時間ぐらいダーツでつないだりとか。稽古しろって話なんですけどね(笑)━目標寄席の雰囲気というか空間がとっても好きで、そこにいる師匠方を見て「こういう人になりたいな」って思いますね。いつも寄席に必要とされてるっていうかいろんな人がいて、それぞれ役目を果たしていく師匠方のように、その一つの駒になれればいいなっていうのはよく思います。結局は、うちの師匠みたいになりたいっていうのが目標なんですけどね。柳亭市童動画一覧はこちらから

三遊亭伊織さん インタビュー

1987年5月1日生まれ、神奈川県。━落語家一筋桜美林大学の落研出身です。大学自体は玉川大学だったんですけど落研が無くて、高校が桜美林だったんでそちらに所属していました。就職活動もせず社会人も経ずに、落語家一筋です。落語を聞いたのが高2か高3くらいだったかな。それで落語面白いなと思って、友達が「落研っていうのがあるよ」って教えてくれて、最初は自分でやるつもりはなかったんですけど、実際にやってるうちに楽しくなって・・・という感じですね。一番最初に聞いたのは古今亭志ん朝師匠の『酢豆腐』。職人のなせる業だな、と。本当に一人の人が喋ってるのかな?って。情景もありありと浮かぶし、これを音声だけでやるって凄いことだな、っていう認識でした。━弟子入り寄席でうちの師匠を観ていて、面白いなって思いましたね。師匠の笑いの取り方とかがすごく好きで、師匠のやり方を面白いなっていう風に感じました。芸名は、師匠が三遊亭歌武蔵で、宮本武蔵の養子の名前が宮本伊織。そこからですね。本名とは関係ないです。前座名は師匠がいくつか候補を出してくださって、その中から師匠の師匠である大師匠・三遊亭圓歌が選んでくれました。━教員免許大学に行くときに「教員免許を取る」って言って、途中で「落語家になる」って言い出したんです。でも両親には「当初の約束だから教員免許取れ」と言われました。先生になるか落語家になるかは最後まで迷いましたね。両親は2人とも教員。自分も大学時代に塾の講師をやってたんです。だからそういう影響もあったと思いますね。━テンションのピークよく元気ないって言われるんですよね。そんなつもりないんですけど・・・野球を観に行ったときはテンション上がりますよ!ヤクルトスワローズが大好きで神宮によく行きます。去年観に行ったときは、七回の表まで10対0で負けていて「もう今日は負けだ」と思ってしょんぼりしてたんです。そしたらそこから逆転して11対10で勝ったんです!!その時は外野席で踊ってましたね(笑)お酒はちょっとしか入ってないですけど、その時は神宮球場がもうお祭り騒ぎになっていたので、自分も知らない人と抱き合ってました(笑)あの時があまりに上がりすぎて、人生の中でも一番上がったかもしれない。友達を誘ったんですけど来られなくなって、結局一人で踊って帰って来ました。━アマ初段入門前から将棋をさしてて、その時はアマ初段だったんです。認定を受けてたんですけど、やっぱり入門しちゃうとそんなことは出来ないので、その間にずいぶん弱くなっちゃっいましたね。なので今年はもう一度アマ初段を目指そうと。家にいて何もないときは将棋の勉強もしたりしてますけどね。それでたまに踊る。ま、30年にたった1回ですけど(笑)━目標落語が好きで何度も寄席に足を運んでくださるお客さんっていると思うんですけど、その日初めて寄席に来るお客さんもいると思うんですよ。私はその人たちに落語を好きになってほしいんですよね。その日初めて来たお客さんが私の落語を見て「落語って面白いんだ」って思ってもらえるような落語をしたいですね。だから「落語を聞くようになったきっかけは伊織さんですよ」っていう風に言われるように、みんなが分かりやすくて面白い落語をやりたいなと思いますね。三遊亭伊織動画一覧はこちらから