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柳亭市楽さん インタビュー

1981年4月10日生まれ、千葉県出身━俺、見つけちゃった。おじさんがたった一人で、口先一つで噺の世界を作り上げて、それを聞いてお客さんが泣いたり笑ったりしてる、落語ってスゴいなって。何でみんなやらないんだろう?って思いました。落語ブームが起きたのは僕が入門した後。「タイガー&ドラゴン」というドラマでTOKIOの長瀬さんやV6の岡田さんが落語家を演じて、それでお客さんがバーっと来るんです。僕はそのブームの前。学生の頃に友達に「落語見に行かない?」と言っても「落語なんてダサい」って誰も来てくれないっていう時代だったんです。なので、どちらかというと「俺、見つけちゃった。誰も気づいてないよ」と。ちょっとしたお笑いブームが起きたころだったので、「これより絶対落語の方が面白いぞ。」と。━自分で対策を立てられる漫才やコントは一人では無理ですが、落語は一人。友達がいなくても出来る。漫才は両方が優れてても相性が合わなかったら売れない。落語はひとりだからもし売れなかったとしても悪いのは自分。何かやるにしても自分で対策を立てられるんですよね。実際は100%自分の手柄っていうことはないですが、でも当時の自分は思っていましたね。だからなんでみんな落語やらないの?と思いますね。━夢を見ていた学生時代大学を出てすぐなので、ちょっと夢を見ているところがあったんです。桂米朝師匠の本を読んだら「芸人は野垂れ死ぬぐらいの覚悟でやるもんだ」とあって、ちょっとかっこいいなと夢見ちゃってましたね。実際いま野垂れ死ぬとなったら「嫌だよ、嫌だよ、嫌だよ」と言いますが、学生ぐらいの時はちょっとかっこいいなとか思うんですよね。太宰治のような若くして死んだ人とかに憧れることあるじゃないですか。そんな感じでしょう。なので、売れたら売れたでかっこいいし、どう転んでもかっこいいって思ったんでしょうね。所詮学生の浅知恵ですが。━自分のやりよう次第お客さんが聞いてくださって「落語って面白い」ってなるってことは「お前は間違っていなかったな」って言ってあげたいですね。落語家になったことに関してはわからないけれど、落語を見つけてきたことに関しては褒めてあげたいと思います。落語家になったことを褒められるかどうかは、これから先のことなので、死ぬときに「バカ!なんでお前は客席にいないんだ」ってなるかもしれない。これからの僕のやりよう次第ですね。━『寿限無』で金を稼げるとは子供の頃に『寿限無』なんかを読んだことはありましたが、当時は昔話の一つだと思っていましたね。面白昔話みたいな。そういうものを人前で喋ってお金をもらう人がいると思ってなかったんです。想像もつかなかった。クラスに一人くらいは『寿限無』を覚えたという人がいて、それを横目で見ながら「そんなモノ覚えたって金は稼げない」と思ってました。だから今となっては「稼げるの~!?覚えておけばよかった!!」って。━物語の宝箱大学2年の秋に歌舞伎のチケットをもらって観に行ったときでした。元々物語が好きなので他にも面白いものあるんじゃないかなと思っていた頃に、大学の授業で講談のテープを聴いて「面白いな」と感じたんです。それから、落語をテーマにした推理小説を読んで「面白そうだな」と行ってみたら小遊三師匠が出てきて、「笑点の人だ」と思いましたね。「この人たちってチームでうまいこと言って座布団もらって生活してるんじゃないんだ」と知ったんです。「喋って金もらう!スゲー!」って。でもその時は仕事にしようというより物語の宝箱だと思っていましたね。━騙された!しばらく寄席に通って色々聞いているうちに大学3年の秋になって、就職どうしようかと。「週5、土日つぶれてそんなに働けるかな、朝起きられるかな、満員電車大丈夫かな」って色々心配になっていたんです。でも落語を聴いていると、「今日は昼まで寝てて」とか言うんですよ。その時初めて「仕事として考えたらどうなんだろう。15分くらい喋ってそれが一日の仕事・・・おっ、スゲーわー!!」って気づいたんです。生きているってことは食ってる訳だし、下手したら「女房が」「子どもが」って言うわけですよ。「15分で子供養える!夢のような仕事だ!」と思いましたね。落語家になってから「無理じゃん!騙された―!」ってなっていますけれども(笑)━尻に火が付いた一緒に前座修行をしていた人たちの中で今度真打ちになるって人たちがどんどん出てきたので、自分もまずそこを目指したいですね。いつ言われてもいいように何年かそれを考えて支度をしていこうと。レパートリーもそうですし武器も。一つのネタを更にもっとよくっていう両方の作業ですね。そう思うようになったのはこの1、2年。刺激というよりも「まずいぞ!まずいぞ!」って尻に火が付いたんです。何十年の世界だからって「徐々に徐々に自分のポジションを作っていく」とか言ってる場合じゃないぞと。いま駆け出した感じです。━向こう側の景色を見るためによく師匠方に「今ある程度出来てると思うだろ?落語ってこういうもので、こういう風にやっていれば出来てると思うだろ?これからもっと腕さえ上げればいいと思っているだろ?違うよ。そういうものじゃないよ。今、自分の高さで見てる景色は俺の見てる景色と全然違うよ。レベルの問題とかじゃないよ」と言われるんです。逆に言うと、これからその景色をどうやって見に行こうかと。もしかしたら僕は今のままの景色で終わっちゃうかもしれない。けど、向こうに行ったらすごいいい景色があるらしいと。そうなったときに、どうやってそこまで行くかですよね。その高さも僕はよくわからないし、行ってみないとわからないことはきっとたくさんありますよね。その師匠が今の僕を見てそう思ってるということは、これからまだ上に行く余地があるということですから。そう思うと楽しいし怖いですよね。行けないかもしれないわけですからそこに。今は「行きたーい」という感じ。「あっちに行ったらすごい景色があるらしいよー」って。その景色を見る為の試行錯誤の日々ですね。柳亭市楽動画一覧はこちらから

林家はな平さん インタビュー

1984年5月6日生まれ。福岡県出身。━落語を知らずに落研に入る学習院大学の落研にたまたま入ってしまい、落語知ったのはそこからでした。それまで落語を聴いたことすらなくて、落研に入って落語に出会ったというかんじ。勧誘されて何となく行ったら居心地がよかったんです。落語が面白いというよりも先輩が面白かったので、落語を聴く前に入ってしまいました。細かい話をすると、兄貴が学習院ということもあり、兄貴の友達が落研にいたことも理由。それで行ってみたらみんないい人だったので入っちゃったんです。ただ、落語は二の次。なんの疑問もなく、行ったその日にすぐ入ってました。━「普通の社会は無理っぽいな」学習院の落研は落語しかしないです。コントとか漫才とかはやっちゃいけない。そこは真面目でしたね。落語を聴いて「面白いな」と思ったのがきっかけで、観に行くよりも自分でやるほうが好きでした。職業として意識したのは大学4年生のはじめぐらい。就職活動の時期に、「普通の社会は無理っぽいな」と思ったんです。向いてないし、やりたいこともない。そんな時、「落語をもっと追求したいな」と何となく思ったんです。━イレギュラーな入門その当時の顧問に相談したんです。顧問が落語家だったので、相談してうちの師匠を紹介してもらいました。ですから出待ちとかの経験がなくて、普通の入り方ではないんです。みんなは「断られて何度も行った」とか言うじゃないですか。そういうのがなくて、行ってその日に入門できたので。ただ、スムーズだったからこそ落語家になってからが辛かったですね。正蔵一門はすごく厳しいんです。うちの師匠は落語協会の中でも1、2を争う厳しさなので。━無表情だけど実は辛かった辞めようと思ったことはないですが、「朝起きたくない」とは1年ぐらい毎日思っていました。だんだん慣れてくるものの、1年ぐらいは師匠の家に行きたくなかったです。辞めたいとは思わなかったですし、行ったらちゃんとやります。けどとにかく辛かった。でも僕って無表情なので顔に出ないんです。だから辛いって思われなくて、無茶苦茶辛いのにそれが伝わっていないんですよね。かといって師匠にそれが伝わったからって優しくするわけないですし、修業してるわけですから辞めるも辞めまいもそいつ次第ですし。━辛さ、解放!寄席に行き始めて他の人と会うようになったり、弟弟子が入ってきたりすると辛さはだいぶ緩和されますね。ちょうど一年後に一つ下が入って来て、その辺から変わってきました。1年間一人だったのでその時は辛かったです。やらなきゃいけないことが全部回ってくるので。でもそれが一人入ってくることによって分担できたのは大きかったです。━二ツ目になる不安みんながよく言うように、肉体と精神って連動してるんですよね。だから、体が辛いと心も辛くなってくるんです。結局は一緒。どっちかだけが辛いとかってことは無いんです。4年半修業しましたが、最後の1年くらいは二ツ目になる不安がありました。「あとは一人でやりなさい」「落語だけで食ってください」ってなるのに、その時は修業してるネタもなかったし、ネタが増えていなかったんです。うちの師匠も「たくさん覚えたほうがいい」ってタイプではなかったので持ちネタが少なかったし、そういう意味で不安でしたね。「ちゃんとお客さん集められるかな」という不安が1年ぐらいありました。そこから1年間で必死にネタを増やしたりしましたね。人によっては3年くらいで二ツ目になる人もいます。僕らの時は人数が少なかったのでなかなか二ツ目になれなかったですね。━暇すぎて今はコンスタントに高座がありますが、最初の1~2年は本当に高座がなくて暇で暇でしょうがないんです。前座の時はなんかしらやってたのが、二ツ目になっていきなり暇になると遊び方も忘れてるんですよ。何をしたらいいかわからなくて、暇を持て余してましたね。学生時代の友達とバンドを組んでライブをやったり。今は落語だけでできていて、そういう時間も無くなったので良かったと思いますが、当時は暇すぎてそんなこともありました。━覚えているだけじゃ無意味ネタの数に不安を感じていた頃は30くらいだったのが、今は3倍の90ですね。落語というのは覚えたからといって全部できるわけではないんです。でも覚えないと色んなパターンが見つからないので、たくさん噺を覚えておかないとならない。30でふるいにかけるのと90でふるいにかけるのとでは、見えるものが全然違いますよね。90全部をできるわけではなくても、覚えてるってだけで意味が違いますから。目標というわけではないですが、二ツ目のうちに100は覚えたいですね。ただ、数というよりは得意な話を増やしたいです。━目指すはやっぱり師匠独演会で生活出来る噺家になりたいです。一人できちっとやってお客さんを帰せること。そして、寄席に入ればそれだけでお客さんが少し増える。そんな噺家になりたいです。目標とする人はたくさんいます。でもやっぱりうちの師匠ですかね。うちの師匠は地方に行ったら地方の人に合わせたネタも出来るし、東京だったら東京で3席やって落語好きな人にも満足してもらえる。初心者にも通にもどっちにもできるような芸人がいいですね。それが一番目指すところです。林家はな平動画一覧はこちらから

三遊亭楽天さん インタビュー

1975年11月5日生まれ、東京都江東区出身━前職はプロダンサー与太郎みたいだと言われることがよくあります。あまり高座の上と性格は変わらないと思いますね。子どもの頃はどちらかというと引っ込み思案でした。元々落語は好きで幼少の頃から聴いていましたが、高校生でダンスに目覚めてヒップホップとかストリートダンスをやっていたんですよ。テレビCMでミッキーマウスと共演したり、フリーのダンサーとしてTRFさんとかDJOZMAさんの後ろで踊ったこともあります。36歳までプロで活動し、それから落語家になったので入門は遅め。今は膝を故障してしまったのであまり踊ってないです。自分の会で色物の代わりに踊ったときには物凄い汗をかいて、息切れも大変だったので以来やっていないですね(笑)━表現することが好き中学生ぐらいの時は漫画家になりたいと思ってました。小学校から中学校くらいのころは漫画をずっと描いていて、ケント紙とかGペンとか使ってましたね。自分は一つのことにのめり込んでいくタイプ。落語家になって苦労したことは、噺を覚えることですね。やっぱり記憶力は若い頃の方がいいです。━食器を割りがち入門してからは失敗だらけです。たとえば、うちの師匠が毎朝納豆をかき混ぜるお気に入りの器を割ってしまったり。あとは、師匠の高座用の湯飲みを割ってしまったことがあります。いろいろ割りましたね(笑)納豆の器に関しては言い訳をさせてもらいますと、洗剤と納豆のヌルヌルが混ざると物凄い滑りやすくなるんですよ。相性抜群なので誰でも割ると思いますね。でもうちの師匠はそういう時は怒らないです。正直に「申し訳ございません」と伝えると、「物は壊れるものだからしょうがねぇ」と。ただ、女将さんの漬物の蓋を割ってしまったときは「俺は知らねーぞ」と言われました(笑)とはいえ女将さんも許してくださって、心の広い方々でありがたい限りです。━落ち込むのはその日限り高座での失敗も多いですね。よく噛みます。無かったことにしてますが、今日も収録で何度も噛みましたし、言い間違えも多かったです(笑)噛むたびに撮り直しとなるとテンションが変わってしまうので、無かったことにするか誤魔化すか。あとは登場人物のせいにすることも。「お前今噛んだろ!」みたいな。あとは家に帰って一人でポツンと酒を飲んで、ズーンと沈むというかんじですね(笑)だけど引きずらないタイプです。良くも悪くも、すぐ物事忘れます。━奥さんには頭が上がらないうちの奥さんは毎日朝ご飯だけは必ず作ってくれるのでそれはありがたいですね。前座の頃はどうしても師匠から誘っていただく仕事が主な収入源なんですが、二ツ目というのはそういったこともそれほど多いわけではないんです。基本的にはどこかで場所を借りて自分の会をやるということが多いので。ですから終わったらまっすぐ家に帰って、ご飯を作ったり、犬の世話をしたり。お酒は好きなんですが、前座の頃の暴飲暴食でメタボの検診に引っ掛かってしまいまして。以来かみさんに「家では飲むなよ」と言われてます。完全に尻に敷かれてます。頭上らないです。ただ、すごく心配もしてくれるので、ありがたいですね。━趣味と実益を兼ねる雑草のように生きていけたらな、と思ってます。カードゲームとかボードゲームが好きで、自分で「落語とゲームの会」みたいなことをやっています。古典落語を1時間やってからお客さんと一緒にゲームで遊ぶ会。5人ぐらいのグループに分かれてもらって、そこを僕が回っていくという感じです。ゲームメインで来る方もいらっしゃいますね。ついでに落語もきこうかな、みたいな方も。趣味と実益を兼ねると言いますか、人が集まりそうなもので何かないかなと考えていたときに、アナログゲームだったら直接人と遊ぶものなので人が集まりやすいかなと思いついたのがきっかけです。なにか趣味のことをしながら生きていけたらなという夢はあります。三遊亭楽天動画一覧はこちらから

林家なな子さん インタビュー

1981年12月21日生まれ。東京都足立区出身。━落語=飛行機のお供祖父が浪曲や落語、講談を聴くような人だったので落語という存在は自然ではあったものの、私自身は二十代後半まで生で落語を聴いたことはありませんでした。落語家になる前は会社員だったので、出張の時に飛行機で聴いていました。音楽は日常生活の中でテレビや有線などから自然と入ってきますが、当時の私の日常生活の中で落語はなかなか遭遇できるものではありませんでした。“飛行機に乗ったら聴けるもの”という感覚が大きかったです。飛行機に乗ると落語が聴けるなっていうウキウキ感の様なものがありました。しかし、わざわざYouTubeで検索してまで聴いたことはありませんでした。テレビでやっていたら何となく眺める程度でした。━建物の中がお花畑みたい!例えば歌舞伎って敷居が高いイメージがありましたし実際入場料も高いじゃないですか。しかし落語は庶民的なイメージがあったので、会社員の時に新宿末広亭に行ってみたんです。「なんだこのタイムスリップした場所は」というのが第一印象でした。建物自体も風情がすごくあって感激しました。何の知識もなく寄席に行ったので、三味線や太鼓が生演奏だということもその場で知り、圧倒されていました。うちの師匠を初めてその寄席で見たのですが、プログラムで名前を見つけた時は、小さいころ見ていた料理番組にうちの師匠が出てたのを覚えていたので「あ~、元こぶ平だ」くらいのイメージでしたが、高座に出てきた時の華やかさというか、明るさというか、オーラというか、まだ何も喋ってないし、ただ座布団に向かって歩いているだけなのに、「なんだろう?この古めかしい建物の中がお花畑みたい」って、本当にそういう印象で引き込まれたんです。━粋な師匠私が弟子の志願に行った1回目が7月7日でした。7は縁起のいい数字。7・7でぞろ目というのもさらに縁起がいいということで「なな子」という名前を頂戴しました。実は私が入門してその日すでに名前が決まっていました。入門日に芸名を頂けるということはとても稀なことですし、私が弟子の志願に行った日を師匠が覚えていてくれたこともとても嬉しかったです。━名前を大きくしていく師匠や三平師匠はお爺様やお父様の大きな名前があるので襲名されていますが、うちの一門自体はほとんど名前は変えないんです。うちの師匠もこぶ平で前座になってこぶ平のまま真打ちになってるので。師匠の願いとしては、自分の名前をどんどん大きくしてほしいということもあるんです。もう私は歳も歳なので適応能力がなくて、名前変えても自分でわかんなくなっちゃいますから(笑)ずっとなな子のままでいます。━自分の名前、言ってしまった。私のすぐ下に1ヶ月違いのつる子という妹弟子がいるんです。今まで女がいなかったところに突然なな子、つる子と増えたもんだから、兄弟子や師匠、女将さんたちは「なな子」「つる子」ってよく間違えるんですよね。「つる子」って呼んでるからと思ったら「なんで返事しないんだ」と言われたり。。。(笑)そのうち、「つる子」って呼んでるけど自分のことだなって察してくるようになりました。しかしですね、つい3年位前ですよ。2人で作業をしててつる子を呼ぼうと思ったんですよ。そしたら「ねえねえ、ななちゃん」って言っちゃって(笑)本当に超恥ずかしかったです5年近く経つのに「間違えた。自分の名前言ってしまった」と。みんな大爆笑してましたね。━女性噺家として女子だから特別っていう意識は入門してからも全く思わなかったんですよ。もちろん楽屋が一緒で男性の前で着替えることも気にしないですし。普段から言葉遣いが荒っぽく足立区出身のままに生きてるので(笑)誰よりも男前でありたいと思っていました。しかし、この噺好きだなと思ってお稽古に行ったけれども、自分がいくら男っぽいと思っていてもやはりお客さんは女として観ている訳だし、この噺を女がやったらちょっと厳しいというか、笑いづらいなとか・・・そういったことを徐々に感じるようになりましたね。━椅子はまだ空いている落語はやはり男性が語るものなのだと思います。何百年もかけて男性が作り、磨きあげてきたものですから。女子にしかできない表現、女子がやるとすごくハマるみたいなものがまだ開拓されてないので、ある意味すごくチャンスだと思います。芸人それぞれのポジションってあると思うんです。女子ってまだその椅子が埋まり切ってないと思うので、すごくそれは可能性というか、誰にでもチャンスがあるんだなって思います。━何歳になっても歳を取るとやっぱり声も出なくなってくるだろうし、演じ方も変わってくると思うんでうよね。でも私はいくら年を取っても「あのおばあちゃん元気で口悪くて勢いのあるおばあちゃんだよね」って言われたいです。━階段がしんどい一之輔兄さんは私より年上なんですけど、「おしゃべりクソババア」というあだ名をつけられました。光栄ですね。私は今年で37歳。前座の時は大変でした・・・。同期の先輩は10歳年下で、高座に上がることよりも楽屋働きがメインなので体力が追い付かないんですよ。だから今までの経験値でどうにかカバーしていくしかない。例えば楽屋で出演料を手渡しするときに、楽屋入りされて落ち着かれたらすぐお渡しに行かなければならないのですが、階段上って出演料を持っていくのがしんどくてしんどくて大変でした(笑)林家なな子動画一覧はこちらから

立川がじらさん インタビュー

1986年5月21日。群馬県出身。━『テレヴィジオン』とは最初からテレビを題材にするっていうことではなかったんですよ。なんかいろいろ勉強していく中で精神分析の勉強を趣味でやってまして。ジャック・ラカン派。もともと人文科学とか哲学とかそっちの出身なので、今でもそういう本しか読んでないです。クライアントと精神分析家が話をするカウンセリングみたいなものっていうのは、予期せぬところでスパッと終わるっていうのがあるんです。で、それが落語のオチみたいにスパッと終わる。わかりやすい。なんか、あざといのが嫌なんですよね。オチでうまいこと言ってドヤ顔で頭下げる、みたいなのがなんかちょっと恥ずかしくて。精神分析って患者さん側からしたら突然「えっ?」ていうところで終わるんですって。そこで終わったことによって患者は何故そこで切れたのかをよく考えて、本当の自分の心の中のものが引き出されるっていうのがあるみたいです。その、”ひとつセッションの中断”っていうのを何かに例えられないかなっていうんで、”テレビを消す”っていうのがまず浮かんで。そこから、テレビを消して何かを考えるっていうアイディアにいき、でもやっぱり何かオチがひとつないとなっていうんで最後は苦肉の策みたいなことに(笑)でもそういうのがまず元にあってそこから膨らませていきました。━落語だったら何でもできるやっぱり元々立川談志師匠が好きで、元々爆笑問題さんとかも好きで。たけしさんとかみんなが「談志師匠すごい」って言うじゃないですか。それでやっぱり気になってですね。で、古今亭志ん生の噺を聞いて決定的に。それから大学で落研に入りました。うちの師匠の『全身落語家読本』を読んで衝撃を受けて、立川流寄席に通うようになりました。師匠志らくはもちろんですけど、左談次師匠とかベテランも皆凄くて、どんどんハマっていきました。大学では哲学科っていうのはなかったので、ドイツ文学専攻。大したことは一切やってないです。ドイツ語は喋れないけど、海外公演はちょっと興味あるんですよ。やっぱりどっかでやれたらなというのは。でも日本語ならではで成立している芸かなというのは思いますね。まあ、言葉が全てですんで。落語で表現できることの幅広さにすごくおののいたというか。落語だったら何でもできちゃいますからね。━演劇と落語師匠が劇団を主宰して、それのお手伝いをさせて頂いていたので自然に演劇に入っていけました。いま小劇場に出させてもらっています。地蔵中毒っていう変な劇団で、落語とは勝手が違うので楽しいですね。やっぱり人とのやり取りが楽しい。落語は自分で処理するじゃないですか。なのでそれが新鮮というか難しさでもあり、掛け合いになるっていうことの感じが違いますね。あと、動いてるっていうのも大きい。で、それをまた落語に繋げていく。刺激をものすごくもらうんですよね。やっぱり仲間たちからも刺激を受けるし、劇団を観に行くようになっていろいろな表現をしようとしてる人たちを見ると「自分はなんも知らないんだな」「もっと広がっていけるんだな」って感じます。━挙動不審の自覚あり友達はいないです。落語界に友達がいないんですよ。よく他の人の話聞くと、みんなで休みの日ちょっとどっか行ったり、旅に行ったり、飲みに行ったりとかしてるらしいんですけど、僕は一切誘われないので。何かの打ち上げっていうのはありますけど、わざわざ休みの何もない時に僕は誘われないですね。他の人は誘われてるらしいんですけど、やっぱり芸風ですかね。なんか嫌だなって思われてるのかな。生理的なものなのかな、挙動も怪しいってよく言われるし。でもそれは最近客観的に自覚していて。やっぱり演劇やるようになったので、そういう影響は大きいですね。動いてる自分を見ると「アレ?」って思うんですよね。こいつ怪しいなって。座ってても僕落ち着きのないほうで、「動くな」って師匠から言われるんですよ。本当は体でリズム取っちゃいけないんですよね。ピタッと止まって喋って、手なんかあんまり動かしちゃいけない。━目を合わせない者同士そうですね〜彼女が欲しいですね…。あともちろん落語うまくなりたいなっていうのもちょっとだけ思ってるんですけどね。まずやっぱり師匠があって、師匠とやっぱり立川の師匠方。本当にすごい人たちばかりなので目標にしたいですね。うちの師匠はちょっと挙動が不審な感じ。うちの師匠、人の目を見ないんですよ。僕も人の目見られないんですけどね。なので基本目が合わないんですよ。僕と師匠の目が合ったのって入門してから2回くらいしかないんですよ。1回は一番初めに「お願いします」って言ったときで、もう1回は楽屋の鏡越しに目が合っちゃって、2人でお互いに「アッ」て言っちゃって、気まずい・・・みたいな(笑)お互い合わせに行かない人なので、本当ははもうちょっと、4回くらいは合ってると思うんですけど。二つ目昇進の時とか多分合ってたんじゃないかな(笑)視力は問題なし。僕はちゃんと見えてます。中学の頃に眼鏡作ったんですよ。検査で「眼鏡作りなさい」って言われて。でも大学生の時、先輩に眼鏡を食べられちゃって…。落研の先輩に、たしか朝の赤羽で眼鏡バリバリ食べられちゃって(笑)それ以来眼鏡ないんですけど、支障ないんですよね。やっぱり人と目を合わせられないっていうのは、視力とはまた別の問題ですね。やっぱり、あの・・・挙動がやっぱりちょっとね。━やっと手に入れたテレビ!でも・・・去年(2017年)の大晦日にテレビ買ったんですよ。一人暮らしで長らくテレビ持ってなかったんですけど『紅白歌合戦』見たくて。紅白でエレファントカシマシ見たくてテレビ買ったんです。大晦日の夕方6時半くらいに電気屋に走りました。どうしても見たかったから。追い詰められてアドレナリンが一番ピークになったときに電気屋に走って行って、一番小型の手頃なやつを。なけなしのお金をはたいて買ったんですよ。でもBSとかって見られないんです。立川がじら動画一覧はこちらから

入船亭遊京さん インタビュー

1988年3月18日生まれ。愛媛県松山市出身。━すごい日本語に出会う高校まで愛媛で、大学で京都。そこから東京で入門ですね。最初はテレビだと思います。落語の映像っておじさんが座布団に座ってるだけじゃないですか。これがすごく新鮮でした。『タイガー&ドラゴン』とか、本とかCDも。今みたいにYouTubeとかも無かったので地元のCD屋で何枚か買いましたね。あとは図書館に志ん朝師匠のCDがあったのでそれを聴いてハマってました。「こんなにすごい、きれいな日本語があるんだ」って。なかなか生で落語を聴く機会はなかったのですが、正蔵師匠の襲名披露興行が西条であって親に頼んで観にいきました。その時のトリの演目が『ねずみ』だったんです。師匠から伝わったネタだそうで、今思うと運命的ですね。━寮暮らしすでに高校生の頃から噺家になりたいという気持ちはありました。それから大学は都会に出たかったので頑張って京都に行って、そこでバイトしてお金貯めて上方の色んな会も観に行ったり。熊野寮は光熱費込みで月4100円なので助かりましたね。風呂なしトイレ共同(便器内で泳ぐネズミの赤ちゃん付)四人部屋のうち二人が中国人の方でした。ただ住んでいるだけで楽しかったですね。その中でも時間があれば友達のところに泊まりながら東京の寄席に遊びに行ったり。それで大阪で師匠の落語観たときに「すごい好きだな」と思ったので、入門するならこの人にしようと決めました。━京大出身入門してしばらくしたときに、師匠が大師匠の「扇橋」のところに連れて行ってくれて、そのときに大師匠が付けてくださった名前です。出身が京都大学だということを師匠は「最初は自分から出さないほうがいい」と言っていたんですが、大師匠は「せっかくだから出したほうがいい」とのことでした。まず「遊京」で色紙を書いてくださったのですが、前座らしく平仮名で、と「ゆう京」になりました。ただ、このときは私自身は頭が真っ白で、当時大師匠のカバンをとりに現場にいた小辰兄さんの話から補っています。師匠扇遊の「ゆう」と大師匠扇橋の「きょう」の音が入っていてとてもいい名前だねと色んな方に言って頂き、そのたびに嬉しい名前です。京大の農学部出身です。機械の勉強とかしてました。農業の中の工学科みたいなところで、波とか流体力学とか、理系なんですよ。勉強していたのはもうはるか昔のことであまり期待には答えられませんけどね。━目標目標は寄席芸人。寄席に生きることですね。どの師匠にも憧れています。━好きなもの好きな食べ物はスイートポテト。甘いものは好きですね。喫茶店行くとケーキとか結構頼みますし。スイートポテト好きだな~。あと、食べ物じゃないですけど半分だまされて行った中国も好きは好きです。入船亭遊京動画一覧はこちらから

瀧川鯉津さん インタビュー

1974年5月15日生まれ。新潟県長岡市出身。━縁起良し鯉津(こいつ)の津が津軽、草津、会津、大津の津で、わたくしの出身が新潟県の長岡市…全然関係ない(笑)ダジャレ先行で付けられた名前ですけれども、自分の中では意外と気に入ってます。二ツ目昇進の時には名前を変えるチャンスがあったんですけど、鯉津で覚えてもらったというのと、芸事は水にまつわる文字が縁起がいいというんで「瀧」も「川」も「鯉」も「津」も、全部水にまつわるからこの黄金比率を崩したくなくて…そう言われてるだけで実際にいい事があったかどうかはわからないです。まだ実感はないです。これからに期待します(笑)━手段として演劇をかじる高校卒業して上京して、桐朋学園というお芝居の学校に行きました。蜷川幸雄さんとかが講師で来て下さって、実際に蜷川先生から授業で稽古をつけてもらった事もあります。元々お笑いをやりたかったんですが、親を納得させるための手段として、学校に入ればそういう道でも許してもらえるかなと思って…姑息なグラデーション掛けました。━産地直送システム一番最初に職業を意識したのは中1の時。その時は社会の先生の授業が面白かったので社会の先生になりたいなと思ってたらいつの間にかこんな事に…でも人前で喋るっていうベクトルは間違ってなかったんだなと思いますね。1人VS大勢みたいな。芝居の学校出ましたが、それで食っていくつもりはサラサラなく、お笑いの方がやりたくて放送作家になり、それで10年弱。そのとき携わっていた演芸番組にうちの師匠がゲストで来て、それでまた表に出てみようと思ったんです。作家をやってると、自分が面白いと思ってもディレクターとプロデューサーの検閲が入るじゃないですか。だけどこの商売だとお客様に見せてスベったらやめればいいし、ウケたら続ければいい。問屋を通さない産地直送というシステムが気に入りましてね。遅いけど36歳で一念発起しました。━上下関係36歳で入門したとき、同じ協会の別の師匠の所には18歳の先輩がいました。自分の子どもくらいの先輩。でもみんな年上ということで敬ってくれるし、先に入ったからといって先輩風吹かすような人はウチの協会にはいませんでした。まぁヨソは…(笑)芸術協会というのは大学みたいなもんで、前座の年季はほぼ4年で二ツ目になれるんです。自分の下が入ってきて寄席の楽屋仕事が回る人数さえいれば、そのまま押し出される形ですね。━こだわりの羽織寄合とかで着るために協会員で浴衣を揃えるんです。馬喰横山の結構芸人御用達の呉服屋さんなんですが。そこで最初に着物を作った時に「なんか面白い生地ありませんか」ということで生まれたのがこの迷彩柄の羽織。学校寄席に行く事があるんですが、小、中学校の生徒さんとかには落語って年寄りがやる芸だと思われがちなので、出オチでもいいから飛び道具として一つ作ってもらったというか。まさかのコシノジュンコデザインの生地をすすめられました(笑)着物で作ったら絶対に噺の邪魔になるので、羽織にすればすぐ脱げるって事でそっちにしました。ただ寄席には絶対着て行かないです。他所行き用。飛び道具ですから。別に怒られないとは思いますけど、なんかいじられるのも面倒だなと(笑)生地が元々羽織作る用の生地じゃなく浴衣用なので寄席では絶対に着ないです。━地元でも頑張りたい地元新潟でお馴染みの顔みたいな…そういう感じになりたいです。といっても難しいですよね。今はNegiccoさんとかNGT48とかが頑張ってますし。僕は断然Negicco派ですね(笑)中央でも頑張って地方でも頑張るっていうスタイルは素晴らしいと思うので見習いたいです。長岡でも隔月で高座に上がっています。銘酒・久保田でお馴染み朝日酒造さんという蔵元があるんですけど、そちらが完全な僕の小学校の学区内なので、そこでやらせて頂いてます。ディナーショーの逆ではじめに落語をきいてから食事。もちろんお酒付きですよ。瀧川鯉津動画一覧はこちらから

桂伸三さん インタビュー

1983年2月10日生まれ、千葉県習志野市出身。━争わずに生きていきたい中学生の時から芸人になりたいと思っていましたが、その時はほとんど落語を聴いたことはなかったです。テレビでビートたけしさんのお弟子さんたちが修業時代のことを話されていました。ストリップ劇場の幕間に演る漫才とかコントの話。女性の裸を観に来ている人達がお客さんだから、なかなか食いつかない。腐りそうになりながらも努力して少しずつウケるようになってくる。風呂なしのアパートで銭湯に行くお金すらないから、屋上の水道にホースを突っ込んで…ってそんな内容だったと思います。印象的だったのが「その時はつらかったけど、今思い出すとあの時が一番楽しかった」という言葉。それを聞いたときにそういう生き方がしたいなぁ…と思いました。競争社会で人を蹴落としたり、人に蹴落とされながら生きるんじゃなくて、喜んでくれるお客さんのこと、芸のことだけを考えて生きていく。きれいごとのようですが、私にとって夢のような話だから、その分貧乏だって覚悟するし、家庭を持つとか当たり前の幸せもなくて構わない。そんなことを考えながら高校3年生まできました。━落研のための大学進学芸人になりたいという思いは、親にも友達にも先生にも言わずに高校3年生になりました。親は「大学には行ったほうがいい」というけど、自分は芸人になるつもりでいるから大学に行く気なんかない。そんな時にテレビで爆笑問題さんの番組だったと思いますが、渡辺正行さんとか三宅裕司さんとか、お笑いや役者の方などに大学の落語研究会出身の方が沢山いらっしゃることを知ったんです。「そうか大学の落語研究会に入れば憧れの世界に近づけるのか」と。これは完全な勘違いなんですけど、高3の私はそう思って大学受験を決意しました。落研がある大学だけを受けて、國學院大学に入学しました。で、落研に入るからには一応落語を聴いておこうと、寄席へ。初めての寄席で誰が出ていて何を聴いたのかはほとんど覚えていませんが、とにかく居心地が良かった。いろんな芸人が入れ替わり立ち替わり、ウケたりウケなかったり。常連風のお客さんが作り出す客席のちょっとした緊張感。世間とは明らかに違うリズムで流れるゆったりとした時間。いっぺんに寄席の、そして落語の虜になりました。そのときの気持ちは入門してからも変わらず、前座の頃、太鼓を叩いたり高座返しをしたり根多帳をつけたり…と、寄席の一員になっていることにこの上ない悦びを感じていました。それはこれからも変わらないと思います。━自分にとっての落語とは落語は哲学や心理学、宗教だったりのごく崇高なものを含みながら、笑いによってそれらをある意味越えたり、吹き飛ばしたり…と本当にすごいものだと思っています。が、同時になんとも言い表しにくい人間の微妙な心理や現象をやさしく描いてくれる。そういうところにとくに魅力を感じます。わかりにくい例えかもしれませんが、目の前に3メートル位の短い横断歩道があって信号は赤。車も全然通らないからついつい渡りたくなるんだけど、向こう側には親子連れがちゃんと待っている。当然止まって待つんだけどなかなか青にならないし、どんどん人が増えてくる。なかには構わず渡っていく人もいるが、せっかくここまで待ったんだし、なにより向こうで小さな子どもが見ている。待ちながら「なんだろう、このすごく無駄に感じる行為と時間…。なんか気まずいなあ。外国の人が見たら日本人って変だって思うんだろうなあ」なんて思っているうちに、「青になってほしい」と同時に「車通らないかなあ。車が通ってくれれば明確な待つ理由が生まれるのになあ」なんて考え出す。これって不思議だと思うんです。車が通ったって本来何も良い事なんてないはずなのに、そのときには通ってくれればちょっと救われた感じがする。そういう不思議で微妙なものを、呼吸や間で描いた噺がとくに好きです。『笠碁』や『長短』、『意地くらべ』など。━時間の使い方映画を観たり、お芝居を観に行ったり、いわゆる遊びの時間もすべて高座につながると思っているので仕事と休みの境はほとんど無いですね。でも息抜きも必要なので、青春18きっぷを買って、宿も目的地も決めずにぶらぶら旅をするなんていいなと思います。近いうちにやりたいです。でも結局旅先でも落語のことは考えていると思いますが…。━いまを大事に生きる同世代でどんどん売れていく仲間がいて、ついつい焦ったり、真似をして柄にもないことをしてみたりしがちですが、結局自分が本当に良いと思ったものじゃないとお客様も喜ばないというのがだんだんわかってきました。当たり前のようですが、一高座一高座を大事にして自分なりに精一杯芸に向かい合うしかないんですね。寄席の世界にいられる悦びを感じつつ、私が寄席に出ることを喜んでくださるお客様が一人でも増えるように精進を続けます。桂伸三動画一覧はこちらから

春風亭昇吾さん インタビュー

1983年12月7日生まれ、福岡県田川郡出身━友達の薦めで落語を知るきっかけは友達ですね。東京に来る前に大阪にも住んでいたんですけど、福岡と大阪の友達が薦めてくれたのがきっかけで落語を観ました。その友達はインターネットカフェのバイト仲間。入門したのが27歳のときで、もう田舎の福岡に帰ろうかなと思ってたとこでした。そこで友達に「観てみたら」と勧められて、その月に大阪に来ていたのがたまたまうちの師匠だったんです。友達は「どうせ田舎に帰るくらいならやったらいいんじゃない」と。僕もノリで「じゃあ観てみる」って。そしたら面白かったですね。20代ってテレビで放送していても見ないじゃないですか、よっぽど好きじゃないと。だからそこが初めてでした。最初が生でよかったと思います。━師匠を選ぶやっぱり大阪で観て面白かったからですかね。だから、大阪に違う人が来ていたら落語の道に進んでいなかったかもしれないです。師匠が笑点に出ていたのも知っていたので。そのあとは、師匠が出ている寄席にも大阪から通いました。すごくわかりやすくて、同じ話を違う師匠がやっていたときにやっぱり師匠が一番面白かった。だから師匠を選びました。━「昇吾」という名前前座から昇吾です。たい平師匠が考えてくれました。うちの一門は自分で考えるんです。だから兄弟子たちも自分で考えてましたね。僕は自分で考えた分は全部却下されたので(笑)弟と同じ「昇市」もありましたけど全部却下(笑)でもたい平師匠が30個か40個考えてくれたんです。見習いの頃、たまたま師匠の荷物持ちをしていた時に仕事の合間に考えてくれて、「じゃあその中から2つくらいお前が気に入ったやつ選べ」って。普通の名前っぽいのがいいなと思って昇吾にしました。うちの師匠・春風亭昇太も普通の名前っぽいでしょ?古いのもあんまり好きじゃないし。で、二ツ目になるときにたい平師匠が「名前変えなくていいよ、変えちゃだめだよ」と。たぶん林家のたい平師匠の一門はみんな名前変えてないと思うんですよね、前座から。だから「名前は大きくするもんだよ」って言われました。それに皆さんすぐ覚えてくれるんですよ、昇吾って。だからもう変える必要ないなと思いますね。━懐中時計事件僕は大体怒られてました。本当は破門になる一歩手前までいってるはずなんですよね。うちの一門は体育会系ですから。まだ楽屋入りしていないとき、懐中時計ってあるでしょ?あれの電池を替えてこいって言われたんです。それを「わかりました」って言って1ヶ月くらい放置していたら師匠がブチ切れちゃって(笑)「バカヤロー!!!お前何にもやってないのになんで電池も替えられないんだよ!!」って(笑)で、「店が分かりませんでした」とか訳わかんないこと言って・・・やっぱり俺がおかしかったんでしょうね(笑)その1カ月、時計は大事に家に保管してました(笑)「明日持ってこい!!」って言われたんで、商店街の時計屋を無理やり起こして電池替えてもらって、師匠の家にすぐ持っていきました。今でも師匠の前ではこの話はできないですね。あれ以降頼まれごとはないです。僕はそこで信用が1回無くなってるんで(笑)でも一応楽屋入りはさせていただきました。━趣味は読書好きな作家は道尾秀介さん。『向日葵の咲かない夏』とか道尾さんの作品は読んでいます。最近は読む冊数も減りましたね。うちの師匠自体がそんなに稽古をつけてくれるタイプではなくて、「○○師匠のところに行ってきなさい」だったので覚えたらあとは時間が空いてたので。落語の本は買ったけど読まなかったです。普通の小説読んだほうが面白い。ただ本を楽しむだけですね。━きょうの二席ボロボロでしたけどまだよくやれたほうかなと思います。朝からだったので全然舌が回らなかったですね。普段からやってたら舌も回るんでしょうけど、僕は怠け者なので。その中でも、とりあえず早口になりがちなので走らないようにはしました。『松山鏡』は聴かせる話なので特に気を付けましたね。田舎言葉で早口になるとぐちゃぐちゃになっちゃうので。田舎言葉は適当。たぶん松山でもあんな喋り方してないと思いますし、師匠方はもっと丁寧です。やっていくに連れてオリジナルになっていくらしいですね。━目標目標はとりあえず師匠を安心させること。やっぱり頑張らないと食っていけないじゃないですか。だから師匠が「あいつ仕事あるな」って思うぐらいに、二ツ目の間になりたいなと。真打になったら違う目標がまたできると思うんで。売れたい!とかはあんまりないんです。お金もあったほうがいいとは思いますけど、後輩と飲みに行けるくらいのお金があればいいです。だからそこそこ稼がなきゃいけないんですけど、そんなたっぷり稼がなくてもいいかなって。━皆さんのおかげあんまり上手くなかったんで高座も2年間ぐらい上がってなかったと思いますね。そのかわり、他の師匠たちがかわいがってくれたんです。有難かったですね。たい平師匠もそうだし、立川生志師匠もそう、遊喜師匠とか文治師匠とかが仕事くれたから食っていけました。本当に皆さんのおかげですね。この世界に入ったのも皆さんのおかげですから。今度3月に地元で落語をやるので、その時は薦めてくれた友達も来てもらいます。嬉しいですね。ましてや売れっ子のたい平師匠と行くので親も安心するでしょうね。やっぱり知っている師匠なので親もよかったって喜んでくれています。春風亭昇吾動画一覧はこちらから

柳家喬の字さん インタビュー

1978年3月14日生まれ、埼玉県さいたま市出身━黄金世代こう見えても高校時代は空手道部。3年間サンドバックを務めました。生まれた日はホワイトデーで、今年の3月で40歳になります。同学年のライバルは市川海老蔵さんです。あとは、氷川きよしさん、滝川クリステルさん。今年引退する安室奈美恵さんも。そして柳家喬の字。黄金世代です(笑)━いつの間にか入門高校の芸術鑑賞会で落語を観て雷に打たれ、就職してからは寄席通いをする様に。段々とうちの師匠を追うようになって、20歳の頃より“この人の弟子になりたい”と思いました。噺家になりたいというのもありましたけど、その前に“この人の弟子になりたい“と。25歳の時に会社を3月いっぱいで辞めて、4月で色々外堀を埋め、あとは入門するだけという状態にして師匠に接触しだしました。5月1日に寄席で師匠を出待ちをして初めて話を聞いていただきました。それから毎日、出待ちをして・・・。噺家は初日と言って1の付く日に弟子が師匠の家に集まるんですよ。だから師匠が「毎日来るんだったら、(21日に)初日というのがあってみんな(兄弟子)も来るから家に来なさい」と。それから毎日、なし崩し的に師匠宅に通う様になり、5月30日ぐらいに前座名をもらいまして。だから正式に今日から弟子っていうのはないんです。5月1日に師匠に話を聞いていただいて、5月21日から師匠宅へ通うようになり、それからいつの間にか芸名をもらって、いつの間にか前座になり、いつの間にか二ツ目に。だから「今日から弟子に取ります。」というのがなかったんです。━前座名の由来は勝小吉ある日突然「お前は小きち」と。5代目小さん一門の前座は、小さんの“小”を付けるか”さん”を付けるかで、前座名をいただきます。たまたま僕が入門したときにNHKの大河ドラマで『新選組』がやっていました。師匠は勝海舟好きで、勝海舟のお父さんが勝小吉。勝小吉の“吉”は漢字なんですけど、小さんの“小”と、“きち”は字面を“小さん”に合わせて、ひらがなの“きち”に。名前らしい名前でもあるからと“小きち”。━“喬”の字との縁前座期間は見習いが1年あったので、それを含めたら3年9カ月ですね。それから二ツ目に昇進して、喬の字。この名前には2つ意味があるんです。僕は師匠の8番弟子なので、兄弟子が喬太郎を始め、喬之助、喬四郎、喬之進とか一通り喬の付く名はつけられていて、師匠は小きちのままでいいとおっしゃってくださいました。前座名って覚えてもらいやすいように、小はぜ、小ざる、さん角、さん坊・・・みたいな、ちょっと他の物と掛けた名前をつけるんですけど、「小きちは名前らしい名前だし小さん一門っぽいから、真打までこれでいってもいいよ」って。だけど、さん喬の弟子なので「“喬”の字をください」って言ったら「じゃあ、“喬の字”あげる」っていうのが一つ。もう一つは、昔の呼称に“何とかの字”というのがあるんですよ。そのものを表す代名詞のことを“〇の字”って言うんです。例えば、ありがたいことを“御の字”。その他にも惚れてることを“ほの字”とか、名前に三がつく人は“三の字”と。現在名前に“喬”を使っている落語家はうちの師匠と桂南喬師匠の2人だけ。しかも僕が高校の芸術鑑賞会で雷に打たれたのが桂南喬師匠だったんです。だから南喬で落語を知り、さん喬で落語家になったので、喬の字に縁があるから喬の字。このまま真打でもいいかなと思ってます。━師匠とお隣さん僕は師匠のマンションの隣ビルに住んでいて、太ると師匠に顔が似るので「息子さんですか」ってよく間違われるんです。出身が埼玉なので、どうせ東京に住むのに師匠の家から離れて住んだらメリットがないじゃないですか。東京に出てきて6回引っ越してるんですけど、だんだん師匠宅に近づいてきてとうとう隣になりました。師匠は「いつか俺のマンションに引っ越してくるんだろうな」って言ってますけど、師匠のところは家賃が高いんですよね(笑) 師匠は寛大な方です。怒られますけどさっぱりしてて引きずらないです。大師匠の5代目小さんの言葉「芸を磨くより人を磨け。人を磨くより自分を磨け。自ずと人が付いてくる。背中を見て育つ」。これを実践なされてる方なんで、そんなに怒られたことはないです。優しいというか寛大な方です。━プレーヤーよりディレクター自分の高座がない日は、車の運転が出来るので師匠のお伴が多いのと、自分でもいろんな会を立ち上げているので企画構成作業を。どっちかっていうと、プレーヤーよりディレクター気質の人間なんです。この会場は何線と何線が通っているのでこういう客層で、こういうタイプの噺家と組むのがいいとか、ネタはこういうのをやろうとか。そういう企画構成が好きなんです。だから自分の独演会も1年前から会場取って、サブタイトルを決めて、ネタを決めて、ゲストを決めて、流れを決めて・・・そういう番組構成を考えるのが好きですね。ただ、告知してチケット1枚売れた時点で鬱になる。本当にこの会やらなきゃいけないんだって(笑) 昔から文化祭とか好きでした。ただ、高校くらいから浮きますよね。みんな中学までは頑張るけど高校になると熱量が違う。だから浮いてたと思うんですけど、やっぱり企画とかが好きですね。━目標余韻を残せる噺家になりたいですね。ただ観に行って「面白かったね」でそのまま帰るんじゃなくて、「ちょっと一杯やって帰ろうよ」「熱燗でも飲んで帰ろう」「また来たいね」と、お客さんが余韻に浸りたくなるような、そういう噺家になりたいですね。余韻を残せる噺家になれば自然に寄席に顔付けされて、トリも任されるようになると思うので。ただ〇〇師匠ほど売れたくないですね。フライデーされたくないので(笑) 噺家としてそこそこ売れたいですね。柳家喬の字動画一覧はこちらから

立川吉幸さん インタビュー

1973年8月31日生まれ、千葉県出身━落語との出会いきっかけはテレビですね。子どもの頃が漫才ブームで、ツービートとかB&Bとかザ・ぼんちとか。だからお笑い番組が多くて、お笑い好きになって、その一つが落語でした。その時にインパクトが強かったのは枝雀師匠。子どもにもわかるオーバーアクションで、当時小学1年の子どもにもわかったというのが大きかったですね。それが落語との出会いでした。それからは、お笑いよりも落語が好きになりました。それから小学校高学年ぐらいになって、東京の落語をテレビで見るように。当時はレコードの時代だし、田舎だったので入手方法も知らないのでカセットテープで聞いてました。親戚のおじさんに貸りたり貰ったりして。その頃は10本セットぐらいの安いカセットテープがあって、先代痴楽師匠とか先代文治師匠、柳昇師匠とかが入ってたかな。古典落語より新作のほうが取っつきやすかったですね。そればっかりを聞いていたわけではないですけど、落語が面白いとはずっと思っていました。━職業:落語家職業として落語家になりたいと思ったのは20歳くらい。高校卒業するときはちゃんと就職しなかったので、当時はバイトをしながら寄席に通っていました。もちろん落研でも何でもないので落語はやったことなかったですけど、やっぱり前座を見ているとやりたくなるんですよ。このぐらいだったら俺にも・・・って勘違いをするんです。すると若気の至りで、やらないで後悔するよりやって後悔したほうがいい、とか思っちゃって。ただ、やったこともなかったし勇気もない。なので、大学に行ったとして22歳、ちょっと働いたりなんかして入門して24歳くらいが限界じゃないかなと考えまして。今でこそ年配で入っている方もいますけど20年前くらいはそのくらいがリミットかな、と自分で勝手に思ったんです。それで、やることもなくて追いつめられちゃって、”落語家になるしかないんだ”っていう変な感じになっちゃったんですね。母親には「好きなことすればいいじゃない」「やったことないのに大丈夫なの?」とは言われましたけど反対はなかったですね。━快楽亭ブラックへ突撃まずはブラック師匠に入門しようと思っていたので、ブラック師匠の家に突撃ですね。高座が強烈に面白かったです。新作とか改作とか、時々古典もやるんですけど、やっぱり基礎がしっかりしていないと変なこともできないんだなと思いましたね。もちろん何の面識もないですけど、弟子にしてくださいと。そしたらあっさりと突撃成功。房総半島出身なので、ブラ房という芸名でした。それから8年経った時点でブラック師匠が立川流を除名になってしまい、今の師匠・立川談幸の門下に。芸名も吉幸になりました。━立川談幸門下にその時点で8年落語家をやっているので何人かお世話になってる師匠ができるじゃないですか。それで、どの師匠に再度入門しようかなって悩んでたときに、うちの師匠とお酒を飲んでいたんです。その席で酔っぱらって「私は師匠の落語だったらできるような気がします」みたいなことを言ったら、「じゃあうちの弟子になればいいんじゃないの」って言ってくれて。その言葉に僕は号泣して、次の日に「昨日はありがとうございました」って話したら「え?!本当にうちに来るの?!」って(笑)なので本当にありがたいです。命の恩人ですからね。━前座11年うちの師匠が立川流を辞めて落語芸術協会に入ったのが3年前。弟子の私と弟弟子も入って、2人とも立川流では二ツ目だったんですけど、他協会から入るっていうことは組織のシステムも違うので前座をもう一度やってくれということになりまして。私が1年、弟弟子が2年。二ツ目になった人がもう一度前座をやるっていうのは前代未聞で、業界内ではちょっとだけ話題になりました。なので、芸協で1年、立川流で9年9カ月やったのでトータルで11年近く前座をやりましたね。前座に戻るって聞いたときは納得していましたけど、40歳を過ぎていたので疲れました。腰は痛くなる、膝は痛くなる、ストレスは溜まる。ただ楽屋は楽しかったし、1年間ってわかっていたのも大きい。立川流の時は身体は楽だけど先が見えない辛さもあったので。━趣味は競輪競輪の仕事もやっているんですよ。これはちょっとアピールしたいですね。予想してます・・・なかなか当たらないですけど(笑)競輪の魅力は、個人競技でありながらチームを組むところ。1着になるために利害関係があって、そういう人間のドロドロしたところがいいですね。もちろん結果に影響しますから、それを予想するのが楽しい。だから他の公営競技と違って初心者は取っつきにくいんです。競馬だって競艇だってオートだって、パンッと鳴れば一気に行くけど、競輪は鳴っても動かない。そういう人間関係の読み合いが面白いんです。今年もいきなり赤字です。僕は年末に高額を賭けるとかの度胸がないので、ちまちまやってます。━目標を語る競輪の目標は当てること。儲からなくてもいいので、的中させることですね。的中と儲けるっていうのは別。10レース中8レース当てても、買い方のセンスで損する人もいるわけですよ。逆に、10レース中1レースだけでもドンと儲かる人もいる。だけど私は当てにいきたい。なぜかというと、ファンの人の前で予想をするので、ファンの方に的中車券を手にしていただく手引きができればと思ってます。初心者競輪教室とかの講師もやっているんでね。落語家としては、売れたいですね。芸協に入ってせっかく寄席に出られるようになったので、寄席にしょっちゅう出られるようになりたいです。立川吉幸動画一覧はこちらから

笑福亭羽光さん インタビュー

1972年9月24日生まれ 大阪府高槻市出身━勝負服で参戦今日の高座は全然エロくないやつ。ましなほうです。深夜の放送の時はそういうちょっとエロい噺をやったんですが、今回電話でオファーをいただいたときに「子どもも見るのでそういうことはちょっとやめていただけますか」と言われまして。なので本放送の収録だと思ったら配信だけやと(笑)だから急にエッチな噺と、2席目は芸能ネタみたいなものをやらせてもらいました。放送の時は私服のトークがあったので、一応テレビに映るための服ということで来たんですけどね。━ノンフィクションが好き1席目は出身地の高槻市での話。実話をもとに作っています。高校2年の夏の思い出、ラブストーリー。ですから携帯電話も何もない時代の、家に電話して告白するっていう噺ですね。昔、漫画の原作を書いていて、その時に何度か青春もののような感じで今日の噺みたいなものを書いたんです。そういうのをもとに作った新作落語ですね。シナリオがすごい好きで勉強をしていました。漫画の原作者をやりながらお笑いもやっていたんですけど、生活は漫画のライターとか原作者のほうがほとんど。『実話ナックルズ』みたいな裏社会のどうのこうのとか、現在のテレクラ事情の潜入ルポとかをやっていました。調べて記事にするみたいなものがすごく好きで、ノンフィクションが好き。だから1席目の新作落語『私小説落語 青春編パート1』もそういう作品です。━天然ボケ?10年前、お笑い芸人をやっていた当時は『エンタの神様』っていう番組があって、1~2分のテレビのネタ尺に合わせてやる時代でした。ワァっと勢いでやるみたいな。全然落語とは違いました。4人組の中で担当は天然ボケ。天然ボケを演じているうちに天然ボケになってしまいましたね(笑)━挫折大阪の大学で落研に入っていて落語はやっていましたけど、落語家になろうとは思っていませんでした。高座名は三代目失恋亭毛零太(しつれんていもれた)。一代目も二代目も実際にいて継ぎました。それはどういう人がやるかというと・・・気持ち悪いキャラですよね(笑)大学以来落語からは離れていましたけど、戻ったきっかけは『エンタの神様』。その当時のお笑い芸人にとって、あれに出てスターになるっていう一つの夢で。テレビでバーッと有名になってという芸人としての夢がありました。桜塚やっくんとかと同じ時期ですね。でも、放送作家とかにネタをいじられてボケとツッコミも変えられるみたいな。しかも1分くらいしかテレビに出れない。僕も半年間くらい作家とやり取りして結局出れなかったんです。だからそういうことにすごく虚しさというか絶望感を感じて。でもそれと同時に作家として本を出していたんで、なんかストーリーをつくるってことにすごく興味があったと。しかも落研だった。なので結局は挫折ですよね。『エンタ』に出れなかったというよりお笑い芸人としての挫折。漫画の方もヤングジャンプで週刊連載していたんですけどそれも打ち切られて八方塞がり。それでどうしようかなと思ったときに落語に救いを求めたという。ですから人生の絶望からのリハビリみたいな感じですね、落語は。リハビリは順調ではないですね(笑)あれから10年も経ちますから。━エロつながり『虎の門』という番組があって、そこのお笑いコーナーで師匠が審査員で出てまして。そのコーナーに爆裂Qで出ていたときに師匠と話をして合いそうだなと。あとはエロつながりというか、うちの師匠はオールナイトニッポンでエロいキャラでやっていたので、そこで通じ合いましたね。羽光(うこう)という名前は師匠がつけてくれた名前ですけど、意味は50音の”あ”から順番に考えたんじゃないですかね?「あこう、いこう、うこう・・・うこうでいいな」って。━放送版「ミッドナイト寄席ゴールデン」での思い出僕は英語教師と数学教師の両親がいて、5歳年下の妹がいるっていう家族。僕の世代はテレビとかビデオが一家に1台の時代だったので、お父さんとお母さんが寝た夜中にそーっと起きて、居間に行ってテレビつけて、イヤホンでエッチなビデオを見るっていう世代ですね。で、そこでお父さんに見つかったっていう話。家族の前で「お前さっき何やっててん」って言われて「いや、何もやってないよ」と。そしたら「(その行為を)やってただろ!」って家族の前で罵声を浴びせられるという。そんなネタを流してくださったんです。プロデューサーさんが頑張ってくれて、「これは医学用法だ」と(笑)「これがダメならガンとか糖尿病もダメになる」って戦ってくださったらしくて(笑)━目標目標はR-1グランプリの4回戦に進むことですかね。これまでの最高成績は3回戦。毎年一応挑戦していて、3回戦と4回戦の壁はすごく感じます。ルミネのあの舞台でコントに勝てないっていうのもありますし、3分っていう時間も。落語は絶対に長いほうが強いと思うので。基本的には座りでどこまでできるかっていうことですね。笑福亭羽光動画一覧はこちらから

柳家蝠よしさん インタビュー

1985年9月21日生まれ。福岡県出身━歌舞伎役者に憧れて元々古典とか歌舞伎とかが大好きで歌舞伎役者を目指していました。国立演芸場で歌舞伎役者を養成していて、そこに入ろうと思っていたんです。だけどちょうど募集が締め切られてしまったので、それを機に「福岡にいたってしょうがないな、とりあえず東京に行って、毎月歌舞伎座に行って歌舞伎の勉強をしよう」と決意しました。歌舞伎の演目って落語に由縁があるものがいくつかあるんですけど、ちゃんと聴いたことはなかったんです。土曜の昼間なんかに米朝師匠とか上方の落語家のテレビがやっているのを観て笑ってた記憶はあるけど、ちゃんと聴いたことってないなって。それでCDショップに行った訳です。だけどすごい数があって何から聴いたらいいかわからなくて、その中で唯一歌舞伎で観たことがあった談志師匠の『芝浜の革財布』を聴いて衝撃を受けました。そこからは談志師匠の追っかけをやっていて、そのうち段々落語の方が好きになって、気付いたら落語家になっていました。━芸事は真似から僕の師匠の落語の好きなところは口調。だからいろんな人から「師匠に習ってないネタでも師匠に似てるね」と言われることが前座の頃はよくありました。最初は嬉しかったですけど、師匠にそれを話しても「お前と俺は違う。お前は俺に似てないよ。お前の道を行け」と言われますね。噺がウケるのは師匠が教えてくれた間でやってるから。自分の欲が出てきて笑わせようとしてウケなくなった時にも、師匠がそれを聴いててくれて「なんでウケないか教えてあげようか」といろんなアドバイスをくれました。だからウケるのは師匠のおかげです。私の実力というよりもすべて師匠から教えてもらったことなので。いろんな名人の方々も「芸事は真似から入る」っておっしゃってますし、一番最初に噺を教えて下さったのも師匠ですし、自然と似ちゃうんですかね。意識したこともないんですけど、師匠のお客様が私の高座を見て「上がり方まで似てる」って言うんです。一切意識したことはないのに自然となっちゃうんでしょうね。━理想の噺家への道いくら師匠に憧れたとしても同じ噺家にはもちろんなれない。声のトーンや骨格も違う、感性も違いますから。一度、師匠と別の道に行くかもしれないと悩んで師匠に相談したことがあったんです。そのときに師匠は「噺家というのは、こうなりたいって言って自分の理想の噺家になれる人はいるのかい?それはアマチュアなんじゃないのかい?」「目の前のお客様だとか壁を一つずつ乗り越えて辿り着いた結果が全く違う新作の方でも別の道でも俺は全然構わないよ」と言ってくださりました。だから今は一つ一つの壁を越えていくっていうことしか考えてないです。━古典を極める基本的に私はやっぱり古典が好きなんです。もちろん新作も好きだし、新作を作ってる人ってすごいなと思います。だけど古典は古典で同じ噺をいろんな人がやっていて、その中で面白い面白くないってハッキリ差が出ちゃうので、その中で一人でも笑っていただけるように古典を精進したいなとは思っています。━相撲からディズニーまで相撲は地方場所にも観に行ったりしますね。国技館の空間とか柝の音が好き。歌舞伎でも鳴り物とかが好きです。あとはディズニーのマリーちゃん。ディズニーシーでしか会えないんですよ。マリーちゃんに会うために一時期ディズニーシーに通っていました。昔、真っ白な猫を拾ってきて飼っていたことがあって、こいつがまた可愛い猫で、学校帰りに必ずいるんですよ。まぁ寝ているだけでしょうけどね。で、私を見つけるとトコトコついて帰って行く。そんな猫のことを、マリーちゃんを見て思い出したんです。それでディズニーシーに通ってました。だけど最近ちょっと浮気しまして・・・カワウソにハマってます。池袋の方にうさぎカフェがあって、そこに通ってカワウソと遊んでもらっています。うさぎが好きで通ってたらなぜかコツメカワウソが仲間入りして、カワウソの可愛さに目覚め週一ペースで通うようになりました。あんな癒しはない。でもマリーちゃんもカワウソもキャバクラみたいなもんで、お金を出さないと会えない。だからキャバクラに通う人の気持ちもちょっと分かる。健全なキャバクラですね。━言い訳はしない寄席というのは、昨日はみんなウケてたのに今日は全体的に客席がシーンとしてるなって日が多々あるんです。でもみんなお金を払って、落語を楽しみたい、落語を聴きたいって来てくださった人なんですよ。それを笑わせられなかったっていうのは自分に原因があると思うんですね。うちの師匠がそう。他の噺家も言ってますけど、どんなお客さんでも笑わせる。だから他の師匠なんかも楽屋に来ると師匠方同志で話をしてるのですが、うちの師匠も話はするけど常に高座を気にして、高座をずっと聴いてるんですね。演者さんのやってるネタとお客さんの反応で「今日はこういう客なんだな」って見定めている。だからそうやっていつでもどんなお客さんでも笑わせている師匠みたいな噺家になりたいなとは思います。言い訳をしないで、ダメなときは自分に何か非があるんだと。次頑張ろうと。そういう感じです。柳家蝠よし動画一覧はこちらから

桂宮治さん インタビュー

1976年10月7日、東京都出身。━師弟関係とは桂枝雀師匠っていう昭和の爆笑王がいまして。その方の『上燗屋』というのを動画サイトで見て噺家になりたいと思ったんですよね。それまでは一度も落語を見たことも聞いたこともなくて、それが30歳のとき。それから31歳になる手前で入門願いをしに行くんです。でも寄席にも行ったことがないから入門の仕方も全くわからないわけですよ。だからネットで調べて、とりあえず直接会いに行って何回断られても土下座しなきゃいけないんだなと。とはいえ歳も歳で結婚もしていたし、この世界でご飯食べていけるとも思ってなかった。だからテレビでよく見る師匠じゃなくて本当に愛せる人って誰なんだろうって。「師弟関係とは父親と子ども以上の関係になること」みたいなことがどっかに書いてあったし。本当に師匠の具合が悪くなったときに下の世話までできるような、そこまで惚れられる人っているのかなと思って、そういう目線で寄席を回り始めました。━全身に電気が走る前職はクライアントさんからの依頼で全国を回る営業。一応うちの会社では1番指名数が多かったので半年以上先まで予約が入っていました。だから依頼を受けるのをやめて、休みをつくってひたすら寄席へ。都内の小さいところから大きいところまで。普通の独演会も行ったし、立川流とか圓楽一門会のも。そんなこんなで1ヶ月以上も仕事を休みながら寄席を見て回ってて、そんな人いるわけねぇよな・・・って思ったころでした。国立演芸場の袖からすごい笑顔でヘラヘラしながらうちの師匠が出てきて、その瞬間に電気が走ったんですよ。女性に一目惚れしたことはないけど、師匠を見た瞬間に初めて本当にビビッときましたね。「うっ、この人だ!」って。「この人に頼んで無理だったらこの世界諦めてよう」と思うくらいすぐにわかりました。だからうちの師匠が何の噺をしていたか覚えてないです。ただ、終わって緞帳が下がってすぐ外に出て、国立演芸場の前でうちのかみさんに「師匠決まった!」って電話(笑)まだ何もお願いに行ってないのに(笑)そこからは記憶がありますね。━ようやく弟子入り麻薬の売買と勘違いされて私服警官に職質されたりしながら3日目くらいにやっと会えました。声かけたら「俺に?じゃ、喫茶店行こう」って喫茶店へ。「なんで俺?俺じゃなくてもっと他に行ったほうがいいよ」「いやいっぱい見て師匠です!」「そっかぁ」「会社辞めてきました」「えー?!」「結婚してます」「嘘でしょ?!もう辞めなよ!」みたいな。でも最終的に「女房連れてきな」って言われて、それから浅草の喫茶店でうちのかみさんに「辞めたほうがいい」と延々1時間以上。「ずっと貧乏だよ。金持ってるのなんかほんの一握りだから辞めな辞めな」って話をされながら、一番最後に「それでもいいんだったらとるよ」って。それでうちのかみさんも「宜しくお願いします」って言って「よし、じゃあ今日から俺の弟子」って取ってくれました。けど「ならないほうがいい」ってずっと言ってくれてたんで、うちの師匠めちゃくちゃ優しいですよね。━噺家人生最大の誇り他の一門の前座仲間にいちばん最初に言われたのが「よくあの師匠を選べたね」。すごくいい人だからみんな助けられてるみたいなんですよ。楽屋にいるだけですごく明るくなるし、自分の先輩にはちゃんと文句言って後輩には優しい人。だから「よくあの師匠が素敵な師匠ってわかったね」って先輩方が言ってくれました。“師匠選びは芸のうち”って言いますからね。いちばん最初の出だしだけですけど、師匠を選べたことだけは今でも誇りに思ってます。前座時代からどこに行っても「伸治兄さんの弟子なんだってねぇ、若いころから世話になっててさぁ」っていつも言ってもらえます。あの師匠の弟子になれたっていうのは、僕の噺家人生最大の誇りですね。━背中を押した妻の一言営業職のころは結構稼いでたんです。でも俺が嫌そうに仕事してたからかみさんが「何か好きなことやれば。一生一回きりなんだから」って。ただ後々「お笑い芸人とかだったら辞めなって言ってたと思う」とも。たまたま落語ってなった時に「これはこの人大丈夫かもしれない」とあの人ながら直感があったみたい。結婚したときは東京都のサラリーマンの平均年収なんかよりよっぽど給料もらってましたけど、結婚した途端にほぼ無職っていう地獄ですよ。桂宮治動画一覧はこちらから

柳亭市童さん インタビュー

1991年6月14日生まれ、北海道出身。━東京の冬北海道より東京にいるほうが寒いです。向こうは部屋の中が暖かいからあまり寒さを感じないんですよね。外の寒さは別次元で考えちゃうんで。━古典芸能何となく古典芸能が好きだったんですね。小学校の頃から和太鼓をやっていたりとか、書道をやってたりとか、日本古来の伝統的なものが何となく好きだったんですね。詳しかった訳ではないんですけど。テレビでもよくやってるじゃないですか、歌舞伎だとか。そういうものを、よくわかんないけど何となく見てるのが好きだったんです。なんか楽しそうだなみたいな。高校を出て特にやることも決まってなくて、唯一好きだったことが落語でしたね。━一目惚れ師匠には好きな理由が詰まっていましたね。色んな師匠がいて好きだったんですけど、言葉にできればいいんですけど、うちの師匠の高座を見ていたときにコレだ!っていうか「これが俺はすきなんだよな」って思ったんですよね。一目惚れに近いかもしれないですね。━名前深い意味はないです。色んな候補が出てた中で市童っていうのが左右対称でいいんじゃないかと。柳家だと柔らかめの名前がいいんですけど、柳亭って付くと結構堅めの名前のほうがかっちりくるって言われてて。で、ちょっと重ためだけど、わらべっていう字もいいし、左右対称だしいいかなみたいな。ほかに候補に挙がっていたのは市治楼とか。市治楼もいいなと思ったんですよね。最終的には何個かある中で自分で決めました。━夜更かしのおとも落語家になっていなかったら・・・高校生の頃に決めちゃっていたので、何をやりたいっていうのはあんまりないですね。小さい頃もそれほど強い夢もなく。ただ単純にお笑いは好きだったからそういうのもいいなと。ラジオが好きでした。ラジオから芸人さんの話を聴いてました。学生の頃はくりぃむしちゅーさんとかアンタッチャブルさんの番組をよく聴いていて、伊集院光さんのは今でも聴きますし。小学校高学年くらいにラジオを持たしてもらって、オールナイトとか聴き始めるんですよ。夜更かしできるアイテムだったから。布団の中で笑いをこらえながら・・・それが楽しかったですね。━趣味の時間ミュージカルを鑑賞したりしますね。劇団四季とか子どものころから好きなんです。帝国劇場に行ったりとか、何でもいいけどいいなと思ったら観に行ってましたね。『レ・ミゼラブル』『ラ・マンチャの男』とかも観に行きましたし。前座の頃なんか、時間がないないって言いながら実はちょっとはあるんですよ。その時に当日券とかで寄席が終わった後に行ってましたね。ダーツは最近ちょっとはまってるっていうだけなんですけど、お洒落な感じじゃなくて一人で黙々と投げます。時間つぶしにとても良くて(笑)寄席だと、二ツ目ですから最初の方に出番があって、トリの師匠まで時間があると1、2時間ぐらいダーツでつないだりとか。稽古しろって話なんですけどね(笑)━目標寄席の雰囲気というか空間がとっても好きで、そこにいる師匠方を見て「こういう人になりたいな」って思いますね。いつも寄席に必要とされてるっていうかいろんな人がいて、それぞれ役目を果たしていく師匠方のように、その一つの駒になれればいいなっていうのはよく思います。結局は、うちの師匠みたいになりたいっていうのが目標なんですけどね。柳亭市童動画一覧はこちらから

三遊亭伊織さん インタビュー

1987年5月1日生まれ、神奈川県。━落語家一筋桜美林大学の落研出身です。大学自体は玉川大学だったんですけど落研が無くて、高校が桜美林だったんでそちらに所属していました。就職活動もせず社会人も経ずに、落語家一筋です。落語を聞いたのが高2か高3くらいだったかな。それで落語面白いなと思って、友達が「落研っていうのがあるよ」って教えてくれて、最初は自分でやるつもりはなかったんですけど、実際にやってるうちに楽しくなって・・・という感じですね。一番最初に聞いたのは古今亭志ん朝師匠の『酢豆腐』。職人のなせる業だな、と。本当に一人の人が喋ってるのかな?って。情景もありありと浮かぶし、これを音声だけでやるって凄いことだな、っていう認識でした。━弟子入り寄席でうちの師匠を観ていて、面白いなって思いましたね。師匠の笑いの取り方とかがすごく好きで、師匠のやり方を面白いなっていう風に感じました。芸名は、師匠が三遊亭歌武蔵で、宮本武蔵の養子の名前が宮本伊織。そこからですね。本名とは関係ないです。前座名は師匠がいくつか候補を出してくださって、その中から師匠の師匠である大師匠・三遊亭圓歌が選んでくれました。━教員免許大学に行くときに「教員免許を取る」って言って、途中で「落語家になる」って言い出したんです。でも両親には「当初の約束だから教員免許取れ」と言われました。先生になるか落語家になるかは最後まで迷いましたね。両親は2人とも教員。自分も大学時代に塾の講師をやってたんです。だからそういう影響もあったと思いますね。━テンションのピークよく元気ないって言われるんですよね。そんなつもりないんですけど・・・野球を観に行ったときはテンション上がりますよ!ヤクルトスワローズが大好きで神宮によく行きます。去年観に行ったときは、七回の表まで10対0で負けていて「もう今日は負けだ」と思ってしょんぼりしてたんです。そしたらそこから逆転して11対10で勝ったんです!!その時は外野席で踊ってましたね(笑)お酒はちょっとしか入ってないですけど、その時は神宮球場がもうお祭り騒ぎになっていたので、自分も知らない人と抱き合ってました(笑)あの時があまりに上がりすぎて、人生の中でも一番上がったかもしれない。友達を誘ったんですけど来られなくなって、結局一人で踊って帰って来ました。━アマ初段入門前から将棋をさしてて、その時はアマ初段だったんです。認定を受けてたんですけど、やっぱり入門しちゃうとそんなことは出来ないので、その間にずいぶん弱くなっちゃっいましたね。なので今年はもう一度アマ初段を目指そうと。家にいて何もないときは将棋の勉強もしたりしてますけどね。それでたまに踊る。ま、30年にたった1回ですけど(笑)━目標落語が好きで何度も寄席に足を運んでくださるお客さんっていると思うんですけど、その日初めて寄席に来るお客さんもいると思うんですよ。私はその人たちに落語を好きになってほしいんですよね。その日初めて来たお客さんが私の落語を見て「落語って面白いんだ」って思ってもらえるような落語をしたいですね。だから「落語を聞くようになったきっかけは伊織さんですよ」っていう風に言われるように、みんなが分かりやすくて面白い落語をやりたいなと思いますね。三遊亭伊織動画一覧はこちらから

三遊亭ふう丈さん インタビュー

1984年8月23日生まれ、熊本県出身━落語にハマる大学時代に落研に所属していました。お笑いが好きでそういう部活を探していたのですが、駒澤大学には落研しかなかったんです。最初は嫌々。かっちり落語をやるような部活だったので「やんなきゃいけない」と言われ嫌々落語をやっていたんです。そしたら「意外と面白いなあ」と思い始めてハマりました。今まではお笑いの中でも漫才とかコントとかに興味があったので、それまでは全く落語を聞いたことがなかったです。一番最初に聴いたのは落研の先輩の噺で、第一印象は難しい。『子褒め』だったかな。理解力が乏しかったんで、「ちゃんと聴いてないと笑えないなあ」っていう印象はありました。(笑)でも実際やってみると楽しいっていうのはありますね。━落語家になる就職活動に失敗したというよりも、気が入ってなかったっていうのはあると思います。ただ、落語家になろうとまでは思ってなかったものの、なんとなくこういうことをやりたいとは考えてて。最後の学園祭でウケたのを見た友だちが「落語家になっちゃえばいいんじゃない?」みたいな感じで背中を押してくれたことも大きかったかもしれないですね。それですぐ調子に乗って「じゃあ(落語家に)なっちゃう?」っていう感じでした。━師匠宅を発見弟子入りっていえば連絡を取らずに出待ちすることが多いと思うんですけど、その発想がなかった(笑)師匠がマクラで「足立区六町出身」と何度も言っていたので、その六町まで行ったんです。僕は師匠がすごい有名人だと思っていて、誰かに聞けばわかるだろうぐらいに考えていたんです。それが大きな間違い。タクシーの運転手さんとかに聞き込みをしても「え、誰ですか?」とか「このへんで落語家といえば先代の圓楽師匠くらいしかわかんないなあ」みたいなのばかり。飲食店とかも転々と聞いたんですけどやっぱりわかんない。そうこうしてるうちにようやくラーメン屋さんで「もしかして大角さん(師匠の本名)のこと?たまに出前してるよ。教えてあげるよ」って。結局夕方くらいまでかかりましたね。━いざ、突撃志願自宅には後日改めて行きました。師匠のお宅だけ確認して「よし、明日の朝行こう」と。次の日に行って師匠がいるかどうかもわからないのに、それでも勢いで行っちゃったんですね(笑)ピンポーンって押したら女将さんが出て、当時飼ってた犬がキャンキャンと出てきたのに続き、網戸越しに憧れの人が!「はいはいはい、うるさいんだバカ野郎!・・・で、なんですか?」って・・・それでまた師匠の声が小さい(笑)ただ、そのときお弟子さんが一人いらっしゃったので「うちはもう弟子は取らないことに決めてて・・・キャンキャンうるさいんだバカ野郎!」みたいな(笑)それだけは鮮明に覚えてます。「新作はやりたいのかい?君が新作をやりたいという気持ちがあるんだったら、ネタとか持ってきてもらえれば見ることはできますよ。やる気があるんだったらネタでも持ってきなさい。ただ弟子を取るかどうかは別です」と言われ、後日ネタを持って今度は出待ち。そしたら覚えててくれてネタも受け取ってくれました。さらに次の日電話がかかってきて「君の書いたネタ、なかなかいいと思うよ」って言ってくれて有頂天でしたね。━縁あって弟子入り師匠が「どんどんネタ持ってこいよ」みたいな感じだったのに対して、僕は間隔を空けて持って行ってたんですね。だから師匠も何となく「こいつはやる気があるのかどうかわかんない」って思ってたんじゃないかな。そんなこんなで半年ぐらい経ったころ、一番下のお弟子さんが辞めちゃって前座さんが必要になり、ちょうどその時にあいさつに行っていたのが僕。ご縁ですね。同じタイミングでもう一人弟子入り志願の人がいて、それがわん丈さん。他にもそういう奴がいたなってかんじで家に呼ばれたのが僕。それから3カ月ぐらいふるいにかけられて、二人とも頑張ってるからってめでたく二人とも入門。ただ同期ながらもやっぱり差を付けないといけないということで、一応半年くらい先に志願をしていた僕が上になりました。━コント風落語表現することが好きですね。お笑いが好き。職業じゃないけど友だちと漫才とかもやってて、何となくこういうことが好きなんだというのはありました。ものを書くのも好きです。コントを遊びで書いてたり、師匠に持って行ったネタもその延長だったような気がします。作るのも話すのもまだ得意とは言えないですけど、好きなのは話すほう。師匠は圧倒的に作るほうが好きだって言うんですよ。作家気質なとこがあるんでしょうね。「話すのは好きじゃない」って。でもやっぱり話すのもすごいので、師匠は絶対そんなことはないと思います。僕の場合はどちらかといえばやってるときの方が楽しいです。━荒川の土手を歩く地味だし趣味とも言えないですけど(笑)葛飾区堀切に住んでいて、歩いて5分くらいのところに金八先生の荒川の土手があるんです。そこでたまにランニングをします。運動は全然ですけど気分転換だったり、人間観察にもなりますしね。学生さんたちがサッカーとかしてて活気があっていいなあと思って。強いて言えば趣味は土手歩きですね。━目標今は二ツ目で寄席にもなかなか出れてないんです。当然ですけど枠が決まっているので。だから真打ちになったときに自分のやりたい新作落語で寄席の出番をいただけて、なおかつウケる。寄席でウケるのは落語家として間違いないと思います。よくわかんない会でウケるより、寄席でウケるということが落語家にとって大切だと思うんです。古典に負けないぐらい新作でウケるっていうのが新作落語家として認められてるというか、すごいことだと思いますね。だからそういう噺家を目指しています。今はそれが目標。新作は去年(2017年)トータルで13本だったかな。それでも少ないです。その中でいくつ残るかって言ったら1、2本くらい。本当はもっと書きたいんですけど、まだまだですね。三遊亭ふう丈動画一覧はこちらから

春風亭昇也さん インタビュー

1982年6月18日生まれ、千葉県野田市出身━落語家になってよかったもともと落語は趣味で聴いていました。漫才師をやっていたんですが解散して、将来漫才師を辞めるか、ピン芸人になるか、落語家になるか、それとも違う相方を見つけてコンビを組むか・・・っていう感じだったんです。でも趣味を仕事にするっていうのはちょっとどうしようかと。大変なのを知ってるんで。それで1年悩んでましたね。その1年は、先輩のライブの作家みたいなこととか、あとはバイト。それも落語会のバイトをやってました。夢空間っていうホール落語のイベント。でもその時が25歳。もし漫才やって、最終的に30歳になったときに売れてませんでした。じゃあやっぱり落語家になります。ってなると相当体力がいると。そっからまた4年の前座修行が始まるので、だったら20代後半を捨てて落語家になって、30歳になってから好きなことやろうと。そういう考え方に切り替えました。でもあのときの私の判断は間違ってなかったですね。落語家になってよかった。二ツ目になって5年。あのとき落語家になる決断をした私を褒めてあげたい(笑)1年悩んだ甲斐がありました。━前座修行結果としては落語家にならない理由を探してましたね。多分。ならない理由を見つけるために1年悩んだんでしょうね。だけど、なかったんですよ。落語家になりたい気持ちはあるんだけど、その修業の4年間っていうのが想像できない。休みが4年間ないっていうのが耐えられるか。みんなそこで挫折するんですよ。「本当は落語家になりたかったんだけど」って言う人はだいたい前座修行に怖気づいてって言う人が多い。あとは家庭の事情があるんでしょうけど。だから最初はその体に慣れるまでが大変でしたね。4年間長かったですね。特に最初の2年が長かったかな。前座も上の方になってくるとだいぶ楽なので。やっぱり最初の2年がもう永遠のような2年でしたね。━教育係・桂宮治基本的にうちの師匠とはあんまりエピソードが無いんですよ。ボケる人でもないし、弟子には結構ドライな人なので。どっちかというと僕もツッコミのタイプだから、そんなにドジやるみたいなのもあんまりないですね。そうそう、僕の教育係は桂宮治さんって人で。前座のころにめくりを揃えてて、うっかり僕がそのめくりをまたいだんです。そしたら物凄い怒られて「てめぇこの野郎!めくりっていうのは噺家の顔なんだよ!またぐんじゃねぇ!」って物凄い怒られて。で、そこから3年ぐらい。後輩がめくり揃えてるところを宮治さんがヒョーイって飛んでったんですよね。だから「おい、宮治。ちょっと待て」と(笑)それで「お前、3年前俺に言ったよな?めくりは噺家の顔だって。お前今何またいでんだよ!」って言ったら「ただの紙だよ」って(笑)━師匠とペアルック前座の頃からですけど、僕と師匠は着る服が似てるんです。地方で泊りの落語会があったときにワインレッドみたいな色のパーカーにジーパン履いてたんですよね、うちの師匠が。そしたら全く同じ格好で僕も地方行ってて(笑)しかも眼鏡かけてるから似てるんですよ。靴も同じメーカーの同じ色の、全く同じ靴を履いてたりしますし(笑)人によっては着物が似てたりすると怒る人もいるんですけど、うちの師匠はそれに対しては何も言わない。ちょっと前の独演会で舞台袖が薄暗くて、師匠が前方の僕とすれ違う時に「その羽織、黄色?」って聞くんですよ。だから「そうです」って答えたらそのままバーッて高座に上がっていって「残念なお知らせです。弟子と着物がかぶりました」って(笑)センスが割と近いんですかね。そういえばこの間着物くれるって言ってたのにまだくれないんですよね。本当どうなってるんだろうな~?!同じの2つ作っちゃったから1個あげるって(笑)━フレームは細く一応、高座用の眼鏡はフレームが細いものにしてるんですよね。ただでさえ本来邪魔なものなんでね。眼鏡をかけると目線が遮られるんですよ。お客さんから見ると私がどこ見てるのかわからなくなっちゃうんで。だから出来るだけ細いものにとは思ってます。あと反射するんでね。最近は反射を防ぐレンズにしようかなと。眼鏡は10個くらいありますかね。高座の眼鏡はこれともう一個。眼鏡の形も変えようかなと思ってますね。ちょっと今のだと真面目そうに見えちゃう。もうちょっと柔らかい印象の眼鏡ないかなと思ってます。━プロフィールをにぎやかに目標は笑点メンバーになることですかね!今は若手大喜利のレギュラーで出てますんで。どうにかこの先10年以内にあるであろうメンバーチェンジの時に食いこまないと(笑)今年の目標は「大きいところで会をやる」っていつも思ってるんですけど・・・結局やらないで終わっちゃうんで今年はやりたい。あとは大ネタをちゃんとやること。割と軽いネタばかりやってるんで、大きいネタを増やしていかなきゃなと思ってます。あとは、賞をもらいたい。なんか賞くれないかな~。獲った人が全員売れてるかっていうとそういうわけじゃないですけど、プロフィールが賑やかになる。今年はプロフィールを賑やかにしたいですね。春風亭昇也動画一覧はこちらから

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